わたし自身、結論を出せないことが多くなりました。たとえば新聞を読んでいて、世界情勢が流動的に動くなか、日本の立場はどうあるべきか、自分なりの答えがまとまらない。あちらを立てれば、こちらは立たない。米国頼み一辺倒もよくないが、ロシアや中国を頼ることも難しい。それをバランス外交というのでしょうが、結論を出せないことは身の周りでたくさんあります。石油を掘り当てて人類の生活が激変した、という本を人から薦められて読み終えました。なるほど人類は石油を堀り当て、車や船舶、飛行機の燃料としただけでなく、プラスチックをはじめ加工品を作り、流通と移動の利便性が高まり、人類は速く遠くへ行くことができたと知りました。同時に、地中に永く眠っていた化石燃料を燃やしたことで、地球温暖化を引き起こしました。地球の未来のため、今後わたしは石油に依存しない、と言うことはたやすいですが、石油を一切断った生活はもはや不可能で、わたしはどうすべきか結論が出ません。石油になるべく依存しない。それが今わたしにできる選択です。
結論を出せなくなった原因はわたし自身の加齢により、いろいろなことを知りすぎたことが一番大きな理由だと思います。いろいろなこととは、ひとつひとつのことに関わっている多くの人、その思いや歴史、対立する意見などです。多様性をさらに広げている社会にあって、いろいろなところで多様な意見が発せられ、現代人は多様性を受け入れることを求められています。ああ言う人もあれば、こう言う人もいる。あちらの立場の考えもあれば、こんな立場もある。「みんなちがって、みんないい」とは詩人金子みすゞさんの言葉でした。難しいことですが、多様な立場と意見にわたしの心が開かれることを、宗教は求めている気がいたします。
自分の意見も結論も、本当に自分の中から出てきた意見なのか結論なのか判然としません。どこかの誰かの受け売りなのか、どうなのか。自分の内側と向き合って出てきた意見と結論は本物でしょうが、なかなかそうはいきません。わたしはお経を読んで勉強しますが、お経に書いてあることが、スッと受け止められないことがあります。解説書を読めば理解の助けになりますが、その理解の元で語る私の意見は解説書の受け売りです。お経を読んで、自分なりの受けとめは果たしてどこにあるか。そんな行ったり来たりを繰り返して、お経を読んでいます。
『仏説無量寿経』に「兵戈無用」という言葉があります。「ひょうがむよう」と読み、「兵士と武器を用いることなく」つまり「戦争をせず」、反戦の意思表示をする多くの場でも語られた言葉です。憲法改正があるやなしやの今、思い起こしてお経を読み直して自分なりに考えてみたのですが、見逃してはならないのは「戦争をせず」の前にあるくだり、三毒とよばれる貪りと怒りと愚かさに貫かれた私たち、人間の姿を見つめることがこの「戦争をせず」につながっている点です。阿弥陀如来の願いのもと、貪りと怒りと愚かさをできるだけ無くそうと努めるなかに、すでに戦争放棄の萌芽があります。つつましく、怒りを持たず、そして独りよがりにならずに心を開く。蛇足ながら、言うは易く行うは難いですが。(住職)