2018年

7月

18日

痛みの記憶

(いた)みの研究によりますと、痛みは急性(きゅうせい)疼痛(とうつう)慢性(まんせい)疼痛(とうつう)の二種類に分けられ、急性疼痛は身体のどこかに痛みの原因があり、その原因を除去することで痛みも消えるのに対し、慢性疼痛は原因を除去しようと試みても消えない痛み、充分に解明されていない痛みをそう呼んでいるのだそうです。この慢性疼痛にはたとえば、何軒かの病院を診察ではしごしても原因がわからない痛みも含まれます。この痛みについて研究者は、「過去の痛みの記憶が、何らかのきっかけで現在に呼び戻された状態もあるだろう」と指摘しています。

 

わたしにとって痛みの記憶とは、幼児期のケガなど肉体的な痛みだけでなく、少年期に人と衝突して味わった胸の痛み、青年期の挫折、生活環境の変化、人生観を変えざるをえなかった出来事、そして家族友人や恩師との死別が思い浮かびました。しかし、もっとたくさんあるはずなのに思い出せない。こうして記憶が風化する寂しさは、加齢とともに募ります。亡き人を偲ぶお葬儀、お彼岸やお盆、ご命日の仏事は、その方を亡くした時に味わった痛みの記憶を、風化させたくない思いから続いているのかもしれませんね。

 

お釈迦さまのお言葉に「あなたはいままで自身が感じた生の痛み、死の痛み、老いの痛み、病の痛みを忘れたのか(そこから離れなさい)」(『仏説(ぶっせつ)無量寿経(むりょうじゅきょう)下巻(げかん))』)とありますのは、仏教が痛みからの解放を目指して開かれた教えであることを物語っています。医療の現場では緩和(かんわ)ケア、つまり身体の痛みを除去することが重要になっているそうです。仏教はいま、この場で痛みを除去する即効性はないものの、慢性的な痛みを、包み込んで、あたためてくださる教えだと思います。それがお釈迦さまのおっしゃる痛みからの解放です。

 

楽しいこと愉快なことは、人生のなかの一瞬。いま、ここに生かされているわたしを、その痛みの記憶とともに包んでくださる願いのなかで、手を合わせるお盆でありたいと思います。

2018年

5月

22日

それは本当に自分の意見ですか?

わたし自身、結論を出せないことが多くなりました。たとえば新聞を読んでいて、世界情勢が流動的に動くなか、日本の立場はどうあるべきか、自分なりの答えがまとまらない。あちらを立てれば、こちらは立たない。米国頼み一辺倒もよくないが、ロシアや中国を頼ることも難しい。それをバランス外交というのでしょうが、結論を出せないことは身の周りでたくさんあります。石油を掘り当てて人類の生活が激変した、という本を人から薦められて読み終えました。なるほど人類は石油を堀り当て、車や船舶、飛行機の燃料としただけでなく、プラスチックをはじめ加工品を作り、流通と移動の利便性が高まり、人類は速く遠くへ行くことができたと知りました。同時に、地中に永く眠っていた化石燃料を燃やしたことで、地球温暖化を引き起こしました。地球の未来のため、今後わたしは石油に依存しない、と言うことはたやすいですが、石油を一切断った生活はもはや不可能で、わたしはどうすべきか結論が出ません。石油になるべく依存しない。それが今わたしにできる選択です。

 

結論を出せなくなった原因はわたし自身の加齢により、いろいろなことを知りすぎたことが一番大きな理由だと思います。いろいろなこととは、ひとつひとつのことに関わっている多くの人、その思いや歴史、対立する意見などです。多様性をさらに広げている社会にあって、いろいろなところで多様な意見が発せられ、現代人は多様性を受け入れることを求められています。ああ言う人もあれば、こう言う人もいる。あちらの立場の考えもあれば、こんな立場もある。「みんなちがって、みんないい」とは詩人金子みすゞさんの言葉でした。難しいことですが、多様な立場と意見にわたしの心が開かれることを、宗教は求めている気がいたします。

 

自分の意見も結論も、本当に自分の中から出てきた意見なのか結論なのか判然としません。どこかの誰かの受け売りなのか、どうなのか。自分の内側と向き合って出てきた意見と結論は本物でしょうが、なかなかそうはいきません。わたしはお経を読んで勉強しますが、お経に書いてあることが、スッと受け止められないことがあります。解説書を読めば理解の助けになりますが、その理解の元で語る私の意見は解説書の受け売りです。お経を読んで、自分なりの受けとめは果たしてどこにあるか。そんな行ったり来たりを繰り返して、お経を読んでいます。

 

 

『仏説無量寿経』に「兵戈無用」という言葉があります。「ひょうがむよう」と読み、「兵士と武器を用いることなく」つまり「戦争をせず」、反戦の意思表示をする多くの場でも語られた言葉です。憲法改正があるやなしやの今、思い起こしてお経を読み直して自分なりに考えてみたのですが、見逃してはならないのは「戦争をせず」の前にあるくだり、三毒とよばれる貪りと怒りと愚かさに貫かれた私たち、人間の姿を見つめることがこの「戦争をせず」につながっている点です。阿弥陀如来の願いのもと、貪りと怒りと愚かさをできるだけ無くそうと努めるなかに、すでに戦争放棄の萌芽があります。つつましく、怒りを持たず、そして独りよがりにならずに心を開く。蛇足ながら、言うは易く行うは難いですが。(住職)

2017年

11月

07日

『仏教タイムス』に寄稿しました

仏教界のリーディングペーパー『仏教タイムス』10月26日号と11月2日号に、短文を寄稿しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年

10月

25日

ブッダが語ったことば

仏教学者の石飛道子さんをお招きし、10月9日に第5回「法話会」を開きました。以下はその抄録です。
-------------------------
 人間を蓮華にたとえたブッダの言葉が残っています。世界を見渡すと人間は九種類に分かれる。汚れの少ない者と多い者、感覚の鋭い者とそうでない者、善い形相の者とそうでない者、教えやすい者とそうでない者、来世に恐れを抱く者。それはまるで青い蓮華や赤い蓮華、白い蓮華のようで、それぞれに水面から出ないもの、水面に接して立つもの、水面から出て立つものの三通りあって九種類あるのと全く同じだと。
 
 さらにブッダはどう生きるべきかを説いています。欲望がかなったときは嬉しいものだが、かなえられなかったとき、人は壊れていく。ゆえに自らの欲望に気づき、避けて生きるべきだと。気づくことによってそれ以上の欲を抑えることもできると。
 わたしたちは暴流に翻弄される舟のようだとも言っています。人生という暴流に漕ぎ出して、向こう岸に渡らなければならない。しかし舟は壊れて水漏れしている。些細な水漏れも、やがて舟を沈めるほどの水になることがある。そうならないよう、気づいたら水を汲み出しなさいとブッダは言います。壊れていない舟が良いに決まってますが、わたしの舟は所詮壊れているわけです。壊れた舟しかわたしには無いのです。手元にある、使えるものだけで彼岸を目指して渡るわけです。
 かくいうブッダはどのようにして暴流を渡ったのか。ブッダは言いました。「わたしは止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を渡りました。立ち止まるとき、実際、沈みます。力を入れてもがくとき、実際、流されます。だから、立ち止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を渡ったのです」。

  大乗仏教では向こう岸へ渡る、到彼岸ということがよく出てきますが、小乗仏教にはあまり語られません。人間は欲が湧くものです。しかしそれを避けるようにとブッダは言います。欲を避けること、そして水が入ってきたら掻き出すこと。その二つで人生を生きていくことができると。誰かこの方法で、彼岸に渡った人がいるだろうかと探したら、妙好人に出会いました。妙好人とは浄土真宗の篤信の信者のことで、なかでも因幡の源佐さんが知られています。妙好人の語源は「念仏するものは人中の分陀利華なり、妙好人なり」(善導大師『観無量寿経疏』)。
 源左さんは18歳で父を亡くします。父は「おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして親にすがれ」と言い残したそうです。以来父が言っていた「親」をさがして仏法を聞き、三十歳を過ぎたある日、牛を連れて草刈りの帰途、自分が背負っていた草を牛の背に負わせた瞬間、ふいっとわかったそうです。親にすがれとは阿弥陀如来にすがるということで、親はこのわたしの生も死も引き受けると言っているのだと。

 ブッダが入滅されて500年たって、インドに龍樹菩薩という方がお生まれになりました。仏教中興の祖と言える方です。それから800年ほどたって日本に親鸞聖人がお生まれになられ、念仏と信心という二つのことばをもとに仏法は再び大きく花開きました。さらに幕末から明治大正にかけて妙好人が現れました。仏法は長い年月の間にどれだけ変わったのか、あるいは変わっていないのか。阿弥陀如来も念仏も、ブッダが残したことばには元々ありません。しかし、ブッダのことばをきちんと読み解けば、大乗仏教こそブッダの教えだとわかります。智慧と慈悲は阿弥陀如来となって具現化し、彼岸にわたる方法は信心と念仏によって確立されました。それは源左さんが証明しています。小乗仏教に伝わるのは出家者が彼岸にわたる方法であって、わたしたち凡夫は凡夫に適した方法で彼岸を目指さなければなりません。凡夫は蓮華のように様々な色があるのですから。(談)

続きを読む 0 コメント

2016年

7月

06日

ふるさとは遠きにありて

 その人は金沢市街を流れる犀川のそばに生れ、寺院で育ちました。寺院の寂しい一室で本を読んだり書いたりするのが好きな少年でした。養父だった住職は茶が好きな人で、茶をいれては茶の間から呼んでくれ、二人で朝や午后やを匂ひの高い茶をのみ、「それが私の読書や詩作を非常に慰さめてくれた一つのものであつた」と後に語っています。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや

 その人、室生犀星はこの詩句の通り、文壇に盛名を得た後も金沢にほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていたといいます。ふるさとを熱烈に思う郷愁と、帰ったとて記憶のなかのふるさとはもはやそこには残っていないことを受け入れる理性とが、折り重なるように自分を襲ってくる詩です。
 わたしたちは、外界の事物が世界を構成していると思っています。しかし実際は、わたしたちの脳が過去の経験の記憶に基づいて世界を構成しています。現代の認知心理学ではそう指摘し、2600年前に仏教を開かれた釈尊も同様のことばを残しています。目で見る世界が真の世界ではなく、脳が自分に都合の良いように世界を創っていると。人は自分で意味を創り、自分が紡ぐ意味の網を張りめぐらせた世界に住んでいると言う人もいます(大井玄『病から詩がうまれる』)。あるアルツハイマー病の女性が病棟を抜け出し、自分のアパートに帰ってしまったことがあったそうです。病棟医とナースが連れ戻しに行き、「保健所から来ました」と言うと、自分の部屋に素直に入れてくれました。そこには市松人形が二つ寝かされていました。彼女の夫の具合がよくないから一緒に来てくれ、という出まかせの理由を言うと、彼女は疑うことなく承諾しました。「ちょっと待ってください、子どもたちにご飯をあげますから」と言って、人形に食べさせるしぐさをしたあと、病棟へ戻ったそうです。わたしたちの認知する外界とはつながっていませんが、この女性の脳に蓄えられた経験と記憶が創る「意味の世界」にこの女性は生きていて、それは認知能力の低下が有る無しにかかわらず、誰もが同じく当てはまるのだそうです。
 室生犀星は生後まもなく生家近くの寺に最初は私生児として迎えられ、住職である室生家の養子となったのは7つの時。実の両親の顔を知らずに育ちました。繊細かつ鋭い感性の少年だったのだと思います。その寺は犀川に面し、そこから眺める犀川と周辺の自然を長く愛した人でした。

 何といふ善良な景色であらう
 何といふ親密な言葉をもつて
 温良な内容を開いてくれる景色だらう
  (「犀川の岸辺」)

 文学を志して上京したものの、ふるさとを一歩出れば世界はつらいことに満ちていました。ふるさとの川の景色は、養父母の慈愛を一身に受けた時代の体験と一緒になって記憶され、自らを慰め励ますよりどころだったことでしょう。しかし、ふるさとへ久々に帰省して感じるこの何とも言えぬ違和感。ふるさとは遠く離れたところから思うものであって、ここに居たのでは悲しい気持ちにさえなってくる。たとえ乞食になったとしてもここは帰るところではもはやない、ああ早く東京へ戻りたいと思わせる、この気持ちは一体何なのか。あの頃の友人もいなければ、養父母も実の両親も他界し、景色すら変わっていた。人間はそれぞれ意味の世界に生きている。それは一瞬一瞬、絶えず変化している。帰るべきところがなかったと気づいたとき、もはや行くべきところもないと感じることでしょう。没後、室生犀星の遺骨は金沢市郊外の野田山墓地に埋葬されましたが、それは犀星自身が本当の願ったことでしょうか。真の意味で、ふるさととは何でしょうか。

 僕は父と母とをうらんだ
 父も母ももう死んでゐた
 僕はほんとの父と母とを呪うた
 涙をかんじたけれど
 もうどこにもその人らはゐなかつた
   (「自分の生ひ立ち」)

 人は老いて、やがて死んでいきます。老いながら、体力の低下や身近な人との死別などを通し、世界とのつながりが少しずつ絶たれていく悲哀を味わい、時々刻々と不安に鞭をうたれます。その苦痛と不安から逃れることは誰とてできませんが、自ら創る「意味の世界」にいることでその苦痛を和らげているのでしょう。たとえばわたしは、南無阿弥陀仏の世界、阿弥陀如来の世界にいて、阿弥陀如来に我がいのちを受け止めてもらうことで、こころの安らぎを得ています。外から見る人には、きっと滑稽に映ることでしょう。しかしその世界にわたしは、ことばを超えた満足を感じています。(住職)

0 コメント

2016年

4月

21日

死別の悲しみ

 新年度が始まりました。お花見に行かれた方も多いでしょう。卒業式や入学式、入社式、退職など出会いと別れが交錯する春ですので、今回は釈尊の入滅を悲しんだ阿難(あなん)と羅嵯羅(らごら)という二人のお弟子を通して、死別の悲しみについて考えます。
 

 釈尊には阿難という侍者がいました。わたしたちが読むお経に「仏告阿難(仏が阿難に以下のように告げた)」と書かれていることから分かるように、「釈尊の教えをお弟子のなかで最も多く聞いた方」と言われています。阿難が釈尊にお仕えするようになったのは、釈尊が55歳の頃。釈尊は身の回りの世話をしてくれる侍者が欲しいとおっしゃり、お弟子たちが人選をすすめたものの希望者が多くて決まらず、そこで釈尊は阿難を望まれました。その当時、阿難は35歳前後と考えられ、50代、40代が多いお弟子のなかで若く体力がある。加えて釈尊の従弟であり、旧知の間柄でした。爾来25年、侍者として釈尊がどこへ行かれるにもご一緒し、釈尊がおっしゃったお言葉をひとつ残さず記憶しつづけましたが、とうとう別れの時がやってきます。入滅を前に、釈尊は頭を北、足を南に向け、右わきを下にして横になっておられ、その前で阿難は大粒の涙を流していました。「わたしはまだこれから学ばねばならないのに、師はお亡くなりになろうとしている」。その言葉を聞いて釈尊はおっしゃいました。「やめなさい、阿難。泣くな、悲しむな。わたしはいつも説いたではないか。生じたもの、存在したもの、つくられたものはいずれ壊れる。すべての愛するもの、好むものからも別れ、離れるのも同じ道理なのだから。悟りを開く人は過去にもいたし、未来にもいるだろう。悟りを開く人のそばには、必ず侍者があった。阿難は実によくやってくれた。わたしにとって最上の侍者だった。これからも怠ることなく修行を完成なさい」。この言葉を最後に、釈尊は息を引き取りました。80年のご生涯でした。その瞬間、阿難は両腕を突き出して泣き、砕かれた岩のように打ち倒れ、のたうち廻ってころがったそうです。阿難は他の誰よりも多く釈尊のお言葉を聞くことができましたが、教えを聞き過ぎたためにかえって理解に苦しみ、また自らの修行にじっくり時間を割けず、他のお弟子がことごとく悟りを開いていくなかで、いまだ悟りを開いていませんでした。ゆえに大地をのたうち廻って悲しんでいたのですが、その姿とは対照的に愛執を離れた修行僧数人は、ぐっと涙を堪えていました。
 

 そのなかに羅嵯羅の姿がありました。釈尊は王子として生まれ、長じて妃をとり一子をもうけた直後に出家しましたが、その子が羅嵯羅です。羅嵯羅も9歳で出家し、釈尊のもとで修行を続け、このとき50歳。師が父であることから教団内に嫉妬する空気があり、ゆえに人一倍努力を続け、険しい山野で独り瞑想を重ねてついに悟りを開き、阿羅漢となりました。釈尊も羅嵯羅を特別扱いすることなく、だからかお経のなかに羅嵯羅が出てくることはほとんどありません。愛執を離れた羅嵯羅は、釈尊入滅の場面でも表情を変えません。その姿は完成された修行僧で、阿難と対照的ですが、実父が目の前で息を引き取るという点を考えると、かえって不自然でもあります。
 

 一方で平安時代の『今昔物語』に、羅嵯羅が釈尊のたった一人の息子としての側面が、自然に描かれています。羅嵯羅は釈尊入滅の悲しみからに耐えかねて、その場から逃げ、神通力を使って仏の世界へ飛びました。しかしそこにいた仏たちに諭され、元の世界へ戻ることになります。そして羅嵯羅が戻ってくることを、死の床にある釈尊は待っていました。羅嵯羅の手を握り、「羅嵯羅よ、おまえはわたしの子だ。十方の仏たちよ、どうか羅嵯羅を護りたまえ」。これが釈尊の臨終の言葉だったと、『今昔物語』にあります。お経に描かれる釈尊は、「すべてのことは無常であり、そこからただ解き逃れることを求めなさい」と羅嵯羅に語ったとあり、それに対して羅嵯羅は教えを淡々と受け止めたとありますが、『今昔物語』で描かれているのは修行者であり師としての釈尊ではなく、子を想うひとりの親としての姿です。
 

 父に捨てられた羅嵯羅は、寂しさと憎しみのなかで少年期を過ごしたことでしょう。9歳から父と過ごしたとはいえ、集団生活ゆえ多感な頃であっても父としての慈愛あふれる言葉はかけてもらえなかったはずです。羅嵯羅は晩年になってようやく自らを幸運だったと認めることができたものの、修行者の集団とはいえ愛憎のなかで、釈尊の子という重圧と闘った青年期、壮年期だったことでしょう。しかし父子は臨終というクライマックスにようやく互いを認め合ったというのが『今昔物語』の物語です。愛憎というドラマが根底に流れているからこそ、諸行無常の言葉が響く。死別の悲しみには涙が合うと考える感性は、国境と時代を超えて変わらないはずです。(住職)

0 コメント

2016年

1月

05日

仏の顔も三度まで

 新しい年が始まりました。本年もよろしくお願いいたします。
 

 武者小路実篤の戯曲『わしも知らない』は、お釈迦さまの説話を元に描かれています。執筆は武者小路二十八歳の大正三年、翌四年に文藝座により帝劇で初演されています。お釈迦さまが出られた釈迦族は、コーサラ国とマガダ国という二つの強大な国に挟まれた小さな、しかし誇り高い民族でした。ある事をきっかけに、コーサラ国のビルリ王が何としても釈迦族を壊滅させようと企て、物語はお釈迦さまのお弟子である目連尊者が、目の前で遊ぶ子ども達のいのちを助けてもらうよう、お釈迦さまに頼むところから始まります。お釈迦さまは「わしだって助けたい。しかし助けることができない。それがこの世の運命なのだ」と言い、次のように目連尊者を諭します。「すべてのことは過ぎてゆく。過ぎてゆく嵐だ。過ぎてゆく洪水だ。過ぎてゆく戦いだ。死屍はいくら山を築こうとも、血はよし川の如く流れようとも、断末魔の叫びは天地に響こうとも必ず過ぎてゆく。そうしてゆく先は海だ。涅槃だ」。そして、言いようのない沈黙が二人に流れた後、場面が変わりビルリ王による、この世のものと思えない殺戮が繰り広げられます。釈迦族の大人はいわずもがな、釈迦族の五百人の男児は轢き殺され、五百人の女児は池に埋められ、釈迦族はお釈迦さまお一人を残して絶えてしまうのです。なぜそこまでしてビルリ王は釈迦族を憎んだのか。


 これは前段となる説話ですが、従属する釈迦族からコーサラ国が妃を迎えようとしたところ、釈迦族では「わたしたちの民族は先祖以来誇り高い。なぜ卑しい民族に娘を嫁がせねばならないのか」とする意見があり、一計を案じた大臣が自らと下女との間に生まれた娘を「釈迦族の王族の娘」と偽って嫁入りさせ、そして生まれたのがビルリ王でした。ビルリ王八歳のとき、弓術の修練を積もうと母の実家である釈迦族の城へ行き、王族しか座ることの許されない玉座にビルリ王子が登ったところ、釈迦族の人々は驚き、玉座から少年を引きずりおろし、鞭で打ちました。「お前は下女の産んだ子だ。玉座に坐るなどもっての外だ」と口々に言うのが聞こえ、出自の真実を知ったビルリ王子は少年ながら釈迦族への復讐を胸に刻みました。
 成人したビルリ王子は父王の留守を狙って王位を奪い、王となりました。そしてさっそく釈迦族への復讐のため、軍を進め、それを知ったお釈迦さまは一本の枯れ木の下に坐って、ビルリ王を待ちました。ビルリ王がお釈迦さまを見て、「世尊よ、ほかに青々と茂った木があるのに、なぜ枯れ木の下にお坐りになっているのですか」と尋ねると、お釈迦さまは静かにこう答えました。「王よ、親族の陰は涼しいものである」。その答えを聞いた途端、これ以上の進軍をあきらめ、ビルリ王はコーサラ国へと戻っていきました。やがて時が経ち、憎しみ冷めぬビルリ王は二度目の進軍を決め、軍隊を進めましたが、またしても枯れ木の下に坐るお釈迦さまに諭され、時が今でないことを悟り、再び引き返しました。さらに時が過ぎてビルリ王は三度目の進軍を謀りますが、またしてもお釈迦さまに行く手を阻まれ、あえなく撤退しました。そして四度目。お釈迦さまは宿縁の深さと事態の止め難きを知り、枯れ木の下で待つことをそれ以上なさいませんでした。ビルリ王は釈迦族のカピラ城を攻め落とし、残虐の限りを尽くして釈迦族を壊滅させました。日本のことわざに「仏の顔も三度まで」とあるのは、この故事に依ります。


 もう一度、武者小路の作品に戻ります。五百人の女児を埋めた池に築かれた城で、戦に完勝し積年の恨みを晴らしたビルリ王は連日宴を催していましたが、その城は建って七日目で焼け、城にいる者全員が焼け死ぬという風評がありました。期せずして七日目、風評のなかで働き、ついに気が触れた女が城に火をつけます。城の最上階にいたビルリ王は下層がすべて炎に包まれているのを見て自らの最後を悟り、籠姫を殺し、臣下と胸をつらぬき合って死にました。場面が変わって翌朝、うららかな朝日が差し込み、小鳥がさえずっています。昨夜までのことは、恐ろしい夢のようでもあります。お釈迦さまが目連に語ります。「すべてのものは何事もないような顔をしている。そうして道ゆく人に逢えば多くの人は何事も知らないような顔をしていよう。カピラ城の滅亡もビルリ王の宮殿の焼けたことも彼らはただ笑い話にすますであろう。わしは彼らのためにそれを喜ぶものだ。だがわしはわが教に従ってすべての人が調和して生きてゆくことを望んでいる。そうしてそういう時の来るのを夢想している」


目連「そういう時が参りましょうか」

釈尊「くる」
目連「いつそういう時が参りましょう」

釈尊「それはわしも知らない」(終幕)


 仏の顔も三度まで。それは仏様がわたしに、その人生を賭して呼びかけてくださるご縁が、その人の生涯に三度はあるのだという意味にも取れます。わたしはこれまでに何度の仏縁に遇ったでしょう。残された人生で、あと何度の仏縁に遇うでしょう。そしてその仏縁を、わたしはありがたくいただいて生きているでしょうか。(住職)

0 コメント

2015年

10月

22日

ネルケ無方師法話全文

淨泉寺では年に一度、10月にご講師をお招きして法話会を開催しております。今年のご講師は曹洞宗安泰寺の住職、ネルケ無方師です。以下法話の全文を掲載いたしますので、ご高覧ください。


わたしは今年47歳になります。1968年ベルリンに生まれました。そもそも仏教との出会いは16歳、高校生のときでした。キリスト教の全寮制高校に入学し、坐禅を好きな先生がいました。というのは欧米では結構坐禅が流行っています。日本ではヨガが流行っていて、ヨガをされる方も多いけれど、ヒンズー教に興味があってヨガをやっている人がいないでしょう。リフレッシュするために同じような感覚で欧米でも仏教に深く入信しているわけではないものの坐禅をしている人が多い。なかにはクリスチャンもいる。キリスト教には魂の存在を説いていても、体をどう使うのかという定義がありません。今から500年ほど前に神秘主義が流行ったとき、ドイツではエッカートという人がいて、神との一体感を説きました。書物にも残していますが、当時のバチカンからは異端視されています。エッカートがどのようにして神秘体験を得たかということははっきりわかりません。キリスト教徒のなかには今でも神秘主義にあこがれを持つ人がいるものの、方法がわからず、仏教から坐禅だけを借りてきて、自分をみつめる。そうすると仏教とは関係なく、自分を超えた大いなるいのちとの一体感を味わうことができるのではないかと考えるキリスト教徒もなかにいます。ですから、キリスト教徒の高校で坐禅をするということは珍しいことではあるけれども、それほど珍しいことでもありません。たまたまわたしは入学してまもなく坐禅サークルに誘われ、そんなものに僕は興味ありませんと最初断りました。なぜかというと、日本でもオウム事件があった直後は宗教そのものが胡散臭く、ましてや瞑想法やヨガも胡散臭く感じられた時期があったように、30年前のドイツでも空中浮遊ができると主張するグループがたくさんお金を要求したりといった事件があり、坐禅サークルときいたときも何かよくわからない東アジアの瞑想法というぐらいしかイメージが涌かず、最初は断ったのです。しかし生徒が集まらなかったらしく、二、三週間ほどたって再度先生からお誘いがあって、二回も誘ってくるのだからなおのこと怪しいと思い、僕はそんなものやりませんと言いました。すると君はやったことがあるのかと。いままでやったこともないし、これからもないと答えると、おかしいではないかと。やったこともないことをこれからもやることはないというのはおかしいと。その理屈に騙されて、一度やるだけのつもりで参加したのが、ここまで続いてしまいました(笑)。坐禅をして何があったのか。私は16歳で初めて坐禅をして、首から下の自分に気が付きました。以前は「あなたはどこにいるのか」と尋ねられれば「わたしはここにいます」と言って頭を指さしていました。この頭で考えているのが、わたしそのものだと。脳が機能するためには酸素が必要で、酸素を体に取り入れるのは肺、それを脳まで運ぶのは心臓というポンプ、だけど今後医療が進歩して、それらの役目を果たす機械が開発されれば、首から下にその機械が自分の体の代わりについてくれればそれで十分だ、体なんて必要ない、むしろそのほうが楽で良いと思っていました。初めて坐禅をしたとき、それまで呼吸に意識が向いていなかったのですが、そのとき初めて呼吸に意識が向きました。ここで呼吸してるのが私だと気が付いた。静かに坐っていると、鳥の声や雨音が聞こえます。首から下と上がつながっていて、こちらと外の世界がつながっていて、全部わたしの世界だとぼんやり気づいたことから、坐禅の世界へ入って行きました。そして一回でやめるつもりが一年間続いていきました。一年たち担当教師が定年で学校を去ることになり、他に責任者となる教師がおらず、わたしが責任者となって欲しいと言われました。町の図書館に行って片っ端から仏教の本を読み、そこで初めて釈尊のことを知りました。2500年前にインドで王子として生まれた釈尊が、何の不自由もない生活のなかで「生きることが苦しい」と悩み、この苦しみがどこから来るのかを考え、この苦しみから解放されるためにどうしたら良いかを見つめるために宮殿を出て、菩提樹の下に坐りました。その釈尊の姿にわたしは誠に失礼ながら親近感を覚えました。それはなぜかと言うと、私が七歳のとき、まだ37歳だった母がガンで亡くなり、学校から帰ってくるなり部屋に閉じこもるようになりました。閉じこもって考えてばかりいました。「どうせ死ぬなら、どうして生きるのだろう」「人生の意味ってなんだろう」「90年生きたからといって人生が窮屈ではないか。それなら若いときに自殺するほうが良い」と。父に尋ねると「それは学校の先生に聞きなさい」と言われ、学校の先生に尋ねると「君はまだ幼い。中高生になって勉強しなさい」と言われ、大人といえど何もわかっていないのじゃないかと思うようになり、周りの友達に聞いても変な目でみられる日々でした。釈尊のことを本で読むまでは、ひょっとしてそんなことを考えた人類初めて人間ではないかとも思っていました。しかし釈尊はただ、首より下の自分に気が付いたとか、気持ちが良いからという理由で、菩提樹の下で坐禅に打ちこんだわけではありません。私が小学生の頃から考えていた、人生の問題と坐禅がつながっているのです。そのことに私が気づいたとき、それまでただ趣味で坐っていたのが、これに人生を賭けたくなったのです。日本の坐禅で欧米でも著名な鈴木大拙さんの著書を読み、高校を卒業してすぐにでも日本で禅僧になりたいと思うようになりました。定年で退職した先生に相談すると、責任を感じたようで「ちょっと待て」と。「君の熱意も分からないではないが、三年もすると熱が冷め、ドイツに帰りたいと思うようになるかもしれない。いますぐに行くのではなく、大学で日本語を勉強してからでも遅くない」と。このため大学入学を優先しました。ドイツですと高校卒業が6月、大学入学10月で、日本と異なり入学を希望していればどこの国立大学でも入学できるため、入学試験がありませんから、その間4か月の休みがあります。この期間を利用して私はホームステイを思い立ちました。向かったのは栃木県宇都宮市のホストファミリーでしたが、そのご家族がクリスチャンのご家庭で、プロテスタントの本場ドイツから来る留学生ですからいろいろ聞こうと思っていたと思うんですが、わたしは仏教、坐禅、そして日本文化に興味を持っていましたから、妙な組み合わせでした。私は尺八を聞きたいと思ってホストのお父さんにお願いすると、「今から本当の音楽を聞かせてあげよう」というので待っていると、スピーカーから聞こえてきたのはベートーベンの第九交響曲ということもありました。近くの浄土宗のお寺に二泊三日泊めていただいて念仏を体験することもできたのですが、やはり坐禅への思いが尽きず、段ボールに「京都方面」と書いて、それを持って高速道路のインターチェンジ付近に立ちました。運よくトラックに乗せてもらうことができ、京都市に行き、臨済宗のお寺を訪ねたものの、修行僧と一緒に坐禅することのできるお寺はそのとき見つけられませんでした。そしてドイツに帰国し、大学へ入学。ドイツの大学は入学は容易でも、修士論文を出してようやく卒業するというのが一般的で、卒業が困難でした。わたしが22歳のとき、まだ卒業は遠い先でしたが、日本への留学を決心し、京都大学へ参りました。再度の来日でしたが禅寺の敷居は高かった。私のような在家出身者は修行道場では坐禅できませんでした。唯一接心のできるお寺を見つけ、4月から6月そしてその後の夏休み期間中もその曹洞宗のお寺で過ごさせていただきました。このまま坐禅三昧の生活をしたい、大学へは戻りたくないと思い始め、和尚さんに相談して、兵庫県の日本海側にある安泰寺を紹介していただきました。そして初めて安泰寺の門を叩いたのが、平成2年9月の終わりのことです。安泰寺は大正時代にできたお寺で、最初は京都市内に、開基さんはもとは僧侶だったものの還俗し、満州鉄道の株で大儲けをし、そのお金をもとにお寺を建立したと聞いています。当初は金閣寺の北に位置する場所で、当時は周囲に畑が多く、修行道場として開かれていたそうです。その後、戦後は収入の道もなく、住職も修行僧もいない時代が続き、澤木興道と内山興正というふたりの傑僧が出て熱心な托鉢と布教で盛り返し、1960年代の終わりに欧米で坐禅のブームが起きたことで、安泰寺へも50人、60人という人が坐禅をしたいと押し寄せるようになりました。当時は高度成長期の真っ只中で、お寺の周囲に住宅が建ち、門前にバスが通るようになり、周囲の環境は坐禅に打ちこむには不向きになってきました。手狭だったこともあって、思い切って山奥の静かで広い場所へ移り、中国の坐禅のように自給自足しながら坐禅に打ちこもうと修行僧から意見だ出されました。一日なさざれば一日食わざるなりということばがありますが、都会で生活しているとややもすれば、目の前の食事がどこからいただいたものかわからないことがあります。しかし実際にみずからが田畑を耕して得た作物であれば、どこからいただいたものかが実感としてわかります。それを実践してみたいと40年ほど前に修行僧が言い、兵庫県の浜坂町を訪ねたとき、廃村になった村が山奥にあると教えてもらった。京都のお寺を売り、そのお金で周辺の土地を求め、お寺を建てたのが現在の安泰寺です。実際に自給自足の生活を始めると思ったほど楽でないこともわかりました。10年も経つと50人だった修行僧のほとんどが外へ行き、私が来寺した平成2年には5、6人しかいませんでした。わずかな人数で50ヘクタールの田畑を耕すのは大変な仕事です。平成2年日本海側に大きな被害をもたらした台風のため、お寺から最寄りのバス停は4キロありますが、バス停に至るまでの山道がきれいさっぱり流されていて、私はその水害の直後にお寺を初めて訪ねたのですが、雨の中を先輩の修行僧がバス停まで迎えに来てくれました。お寺に着いてお風呂をいただいたのですが、沢の水を引いているため濁った水の風呂、まるでコーヒーの中に入っているような体験です。お風呂の後に当時のご住職に面会をし、こう尋ねられました。「きみは一体何をしにきたんだね」と。「私は坐禅と仏教を教えてもらいに参りました」と言うと、「アホ、ここは学校じゃないんだ。お前が安泰寺を作るんだぞ」と。まだ22歳の留学生に向かって。おそらく修行を試みて訪れた人はみな、そう答えたと思うんです。それに対して最初の一言が「私が安泰寺を作る」でしたから、私も衝撃を受けました。住職が言いたかったのは恐らく、坐り方ひとつで得るものは千差万別で、お前自身が坐禅を作るんだという気概を伝えたかったのだろうと思うのです。それから半年のお寺での生活が始まりました。兵庫県といえど日本海側にあるお寺は多いときは4メートルもの積雪がありますから、冬の4か月ほどはお寺に閉じ込められる生活です。仏典の勉強をしたり、坐禅をしたり。浄土真宗に三部経がありますが、禅宗は不立文字といって、拠りどころとなるお経を持ちません。かといってお経を読まないわけでなくお経を否定もしません。自分の実践、日常生活が重んじられるということです。しかしその風潮が行き過ぎ、曹洞宗ではお経を勉強しないお坊さんが多いという面もあります。鎌倉時代までは天台宗や真言宗は延暦寺などを拠点とした総合大学という側面があったと想像しますが、学僧らによる実践があまりない風潮に対して鎌倉時代、それでは庶民がすくわれないと考えた法然や親鸞、日蓮や道元といった人が出たのではないかと思います。実践を重んじる風潮が行き過ぎて、禅宗ではあまり勉強しなくなった。本日のような法話もあまりしません。葬儀や法要は勤めます。お施餓鬼や大般若もいたします。仏は一体何を説いたのかということについて、残念ながらあまり勉強されない。安泰寺では春から秋にかけては農作業で忙しいものの、冬は毎日勉強会です。それも住職ひとりが教えるのではなく、各々が当番制でおこなう輪講で道元禅師の書物などをテキストに、それが自分の生き方とどう関わっているのかを自分に問いながら、後でディスカッションしています。わたしが安泰寺を初めて訪ねた平成2年からそれは変わりません。年が明けてわたしは大学を卒業するためにベルリンへ戻り、本格的に出家し弟子にしていただこうと平成5年に再び安泰寺へ参りました。弟子になって正式に修行僧となると、料理当番が回ってきます。典座といいます。安泰寺にガスはなく、竈に薪をくべ、玄米を主食にお味噌汁と、畑でとった野菜でおかず二品か三品を作ります。朝晩はご飯ですが、昼食は麺類が多いです。農作業していますので、作業服のままいただきます。わたしも初日からうどんを作れと先輩に言われ、ドイツにうどんはなく、スパゲッティのアルデンテのつもりで作ったら固すぎて食えないと言われ、次の日にやわらかくしようと30分ゆがいたら今度はおかゆになってしまったことがありました。毎日料理のことで怒られているので、僕はなにも料理の勉強をしたくて日本に来たのではないと反発したら、それを横で聞いていた師匠が「おまえなんか、どうでもいい」と怒りました。なかなか師匠の気持ちを当時は理解することができませんでした。啐啄同時(そったくどうじ)という言葉があります。啐啄とは鳥が木をつつくこと、とくに啐は卵の内側から雛がつつくことで、啄は卵の外側から親鳥がつつくことを言います。殻をやぶって雛が外へ出ようとする瞬間、内外からつつくのですが、どちらが先になってもいけない、同時でなければならないという意味です。これを仏教の師弟関係にあてはめるわけです。「おまえなんか、どうでもいい」と師匠から言われたとき、純粋な心の持ち主であれば気づくこともあったでしょうが、私は気づくことができず、師匠の気持ちがそのときのわたしを素通りしていったのです。最初は師匠がおかしいと思いました。安泰寺のご本尊は奈良県にあった何宗かわからないお寺のものを遷したものですが、ご本尊を尋ねたとき師匠は「お前こそ安泰寺の本尊だ」と言ってくれました。そこまで言ってくれる師匠が、なぜ「おまえなんか、どうでもいい」と言うのか。おかしいではないか。今の安泰寺には修行僧が二十名いますが、冬を越すのはせいぜい十名で、それぞれがそれぞれの安泰寺を作ってもらったのでは困る。各々が安泰寺の仏だと言い張ったら困る。自分を手放して、自分を忘れて初めて本当の安泰寺が作れる。そのことがわかるまで私には長い時間が必要でした。平成十三年まで師匠のもとで修業し、わたしは嗣法という儀式を受けるまでになりました。これは住職の教えを嗣ぐというもので、これを終え、本山へ参りますと住職となり、弟子を持つことが許されるというものです。将来ドイツに帰り、坐禅道場を開こうと考えていた私は、住職といわれ、はたと考えました。ベルリンには数多くの坐禅や瞑想の道場があります。それは日本にヨガをできる場所がたくさんあることと似ています。私がいますぐ帰国しなくても、数多くある。逆に日本には七万五千あまりあるというお寺が、本来の役割を果たしていない。お寺の役割、それは葬儀や法事、法要ではなく、生きるための教えを説く場所であるということ。曹洞宗で一万五千あまりお寺がありますが、どこでも坐禅ができるわけではありません。だからドイツに帰国する前に、日本で坐禅道場を作ってみたいと思うようになりました。ひょっとして、こちらのご住職、福井さんがこちらにお寺を作ったときの思いに通じる部分があるのかもしれません。ずっと山奥に籠って坐禅をしてきたけれど、これからは一般の社会の人たちに仏さまの教えを伝えたいと。それができたらドイツに帰国するかもしれないが、先のことはわからない。ところが山を下りるとお金がないから、道場どころか自分の住む場所を借りるお金もない。困って大阪城公園をぶらぶら散歩していたら、あちこちでホームレスがブルーシートのなかで生活している。当時社会問題にもなっていましたが、大阪城公園だけでも八百人ほどいました。そのとき釈尊のことを思い起こしました。釈尊も金キラキンの伽藍の中で坐禅を組んだわけではありません。菩提樹の下です。説法もおそらく野外でなさったでしょう。釈尊の真似はできないけれど、ブルーシートのなかで生活しながら坐禅することは私にもできると思い、見晴らしの良い場所を見つけ、隣の方に声をかけて許しを得、十四年前の九月にテントを張って暮らし始めました。毎朝午前六時から外で二時間坐禅、初めは誰も一緒に坐りませんでしたが、近くのインターネットカフェでホームページを作り、「私は三十三歳のドイツ人で、大阪城公園で毎朝六時から坐禅をしています。一緒に坐りませんか」と呼びかけると、一人二人と増え、冬は四五人にまでなりました。安泰寺での生活に比べ、本当に楽しい生活でした。それまでは師匠のもと、午前三時四十五分に起床し、四時から坐禅、夜遅くまで自分の時間などありませんでした。ホームレスの生活では二十四時間すべて自分の時間です。最低でも三年間はその生活を続けるつもりでしたが、それから半年後の二月十四日に師匠が除雪中に事故に遭ったという連絡がありました。急いで電車で浜坂に向かったものの、病院で亡くなった後でした。師匠は結婚されていたものの子がおられず、弟子は私が五番目の末弟でした。四人の兄弟子は全員事情があって安泰寺にすぐに戻ることができないため、私が春まで急きょ留守番することになりました。私は困りました。こうしてお坊さんらしい格好をしていますが、中身は生臭で、大阪で十年ぶりに恋をして彼女がありました。二月十四日といえばバレンタインですから、夜は彼女とデートする約束だったところを浜坂へ来たわけです。彼女へ電話して事情を伝え、春までの約束で安泰寺に留まることにしました。しかし桜が咲いても兄弟子は来ず、外国人の弟子が多いからお前がやれと言われて、住職に任命されることになりました。当時まだ可愛かった彼女に一緒について来て欲しいとプロポーズして、今はもう力関係が逆転しているようなことです。嫁に逆らえないけれど、何人かできた弟子には師匠ですから、私が師匠から教わったように各々が自分を手放し、安泰寺を作るようにと教えております。自分が仏にならなければ、仏はどこにもいない。だけれども俺が仏だと思ったら、それは仏じゃない。私という思いを手放してこそ、皆が仏の世界に生きることができます。弟子たちによく言います。「キュウリのように育ちなさい」と。安泰寺ではキュウリの苗を植え、その上にひもを一本たらして育てます。仏教の教えになぞらえるなら、苗が弟子、ひもは仏の教えで、自ら掴んでまっすぐに伸びるのが理想の弟子です。しかし、とくに日本人に多いのがトマトのような弟子です。ひもを一本たらしただけではトマトは育ちません。頑丈な支柱を建て、さらにその支柱にひもで縛る必要があります。また芽欠きもします。実がなると美味しいトマトですが、それまでの手間が大変多い。ひょっとすると日本人は幼少からトマトのように縛られて、学校に入っても縛られて、社会人になっても縛られているのではないか。では欧米人はキュウリかと言うとそれも違います。欧米人はむしろカボチャのような人が多いです。カボチャは双葉がでるとキュウリにそっくりで可愛いけれど、間違えてキュウリと同じ畝に植えると大変です。カボチャはそこらじゅうに蔓を伸ばし、隣の野菜まで殺しかねません。カボチャも美味しいけれど畑に植えるときは隣の苗と一メートル以上間をあけて植えないとケンカします。キュウリのように育ってくれない弟子を見て、私はため息をついていますが、師匠が悪いから弟子が悪いんですよね。道元禅師の言葉に師匠は大工ならば、弟子は木材だと。たとえ木材が悪くても、優れた大工は一流の建築に仕上げます。料理も同じ。しかしわたしの今の立場で、弟子にそのことは言いません。釈尊以来の修行法で禅宗では坐禅をいたします。どれだけ坐禅しようと釈尊のようにはなれないと分かっていても、師匠はそのまた師匠から教わったことを弟子に伝え、ずっと釈尊を目指してきたという伝統があります。それでも弟子は自分の師匠に不満を持つことがあります。ある時、わたしの師匠の師匠にお会いして、お話しを伺う機会がありました。その師匠にすれば、私は孫弟子のようなもので、可愛がってくださってお酒もいただきました。師匠は言いました。「バカな弟子のところには、バカな師匠しか来ない」。この言葉はある意味、道元禅師のお言葉と反対のことを言っています。道元禅師は大工がダメなら木材もダメになってしまい、師匠がダメなら弟子もダメになるとおっしゃった。でもその逆だと。お前と言う弟子がダメなら、師匠もダメになってしまうと。要するにダメな師匠であっても、お前の関わり方ひとつで引き出せるはずだと。そこから釈尊の教えを引き出すのはお前自身だと。引き出さないのはお前が悪いからだと。師匠が弟子を作るという流れと、弟子が師匠を作るという二つの流れがあります。私自身の話はこれぐらいにして、仏教とはどのような教えかをご一緒に考えてみたいと思います。仏教には三つの側面があるように思います。第一に「私が仏になる」。釈尊が説いていた教えに、この言葉が最も近いと思います。私という人間がいかに生き、いかに死ぬべきか、この苦しみからいかにして解き放たれるか。釈尊は二千五百年前に気づき、実践し、仏になりました。釈尊は以来四十五年間にわたり、インド各地を巡りその教えを説きました。釈尊は医者にたとえられ、病んだ者を診て処方箋を出すことはできる。しかし処方箋に基づいて薬を出してもらい、飲むのは私であり、釈尊はそれを見ているだけであります。薬を飲むかどうか、そしてリハビリをするかどうかは私次第。釈尊は実物、見本であって、救世主ではありません。そこがキリスト教との違いです。これだけが仏教だという人もいますが、私はそう思いません。凡夫が仏になるために三阿僧祇劫という長い時間が必要。阿僧祇とは時間の単位です。一キロ四方の巨岩があって百年に一度、天女が舞い降り羽衣の袖でその岩を撫でる。それを繰り返すことで長い時間をかけて岩がすり減って無くなるまでが、ひとつの阿僧祇劫という時間でそれが三つもある。第二は無我の教えです。無我を説きながら、釈尊はその一方で涅槃に入られて、お弟子をみんなを置いていった。そのため後に興った大乗仏教、とくに浄土教では法蔵菩薩を軸に、助けを求めるすべての人をすくいたいという願いを立てるという経典が現れた。そこには自分一人では仏にならない、みんなを救いたいというメッセージが強く表れています。それが日本で浄土宗、浄土真宗となって広まっています。法華経では釈尊は本当は死んでいない、芝居だったんだと説いています。死んではおらず、目に見えないが私たちを見守ってくださっている。浄土教では自分と言うものを手放してこそ、阿弥陀如来が救ってくださるとあります。本日午前中に坐禅をいたしました。最初は皆、「自分が頑張って坐禅をするんだ」と意気込みますが、ある時から「わたしが坐禅をする」という意識から「坐禅がわたしをする」という意識へ転ぜられる。大いなる力に抱かれて、坐禅をさせていただいていると気づくときがあります。他力のようなものへの気づきが、坐禅のなかにもある。これは一人称の仏教ではなく、いわば二人称の仏教です。あちらからやってくる他者と、自分とで成り立つ。浄土真宗の念仏を私たち禅宗では唱えませんが、永遠の存在そのものの名前です。三人称の仏教もあると思います。道元禅師の晩年の和歌にこうあります。「おろかなる吾れは仏けにならずとも 衆生を渡す僧の身なれば」(『傘松道詠』)。自らの愚を嘆き、たとえ仏になることができずとも、人々が救われてさえくれればそれで僧の勤めを果たすことができる。自分は最後でいいと。それをわかりやすく詠んだ詩が宮沢賢治の『アメニモマケズ』です。衆生を度す菩薩の姿です。他者の救済をまず優先する。三者いずれも根っこは同じです。(質疑に入り)「どういうことを心掛けて生活されていますか」一息半歩という言葉があります。午前中の坐禅が終わった後、十分間で皆さん一緒に歩きました。一息で半歩、計三メートルほどです。私たちが仏になるのは、気が遠くなる時間がかかります。いまこの世界を少しでも仏国土、浄土に近づけようとすることは気が遠くなる時間がかかります。それを明日までしなくちゃいけない、来年までしなくちゃいけないというのではなく、いまここでできることを少しでもやる。昨日より今日、できることをする。昨日掴んでいたものは今日少しでも手放してみる。全部じゃない。人のために、一歩でも前へ。それを繰り返すとやがて長い道を行くことができる。いまここで全部解決しなくても良い。一分だけでも毎日坐禅する。それができれば二分、三分と。「自然法爾とは」親鸞聖人がおっしゃる言葉で、阿弥陀如来というわたしを超えた大きなはたらき、この大きなはたらきに任せて日々生活するということですね。自分の力で頑張るという考え方とは対極の、自ずから然らしむ、おのずとはたらくものに任せる。道元禅師のお言葉にこうあります。「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」(『正法眼蔵』(生死の巻))。このお言葉は親鸞聖人のお考えに非常に近いと思います。自分を手放してこそ、向こうから力をいただく。この力が自分を通してはたらく。クヨクヨする自分を手放して、阿弥陀如来の力が私を通してはたらく。これはまさに自然法爾のはたらきではないかと思います。道元は自力、法然と親鸞は他力と言われますが、そうではないと私は思います。坐禅においても、日々の生活においても、この私を投げ出し、向こうから帰ってくる力をいただいて、生かされて生きる、生活させていただくと、あれだけ遠かった仏は実は自分の後ろにいた、自分の後ろを押してくれていたということへの気づきになるわけです。

0 コメント

2015年

6月

29日

お寺が消える

 日本人の多くは正月の初詣や七五三で神社へお参りし、お盆やお彼岸はお墓へお参りし、結婚式はキリスト教でおこなって、お葬式は仏教という形が定着していて、これらは一見無節操にみえますが、日本人は宗教を軽んじているかといえば、そうでもないと思います。世論調査で「あなたは何らかの宗教団体へ加入していますか」と尋ねると「はい」と答える方は一割前後に過ぎないそうで、しかし初詣やお墓参りに九割もの人が参加するということは、特定の宗教宗派を信じたり属する人は少ないものの、何らかの宗教性を日々重んじている、これは世界的にみて特異な国民と言えるでしょう。

 その、日本人の生活に溶け込んできた神社やお寺が、消える時代になりました。人の生き死にのあらゆる場面に関わってきたお寺、そしてお祭りや七五三、結婚式といったお祝いごとと密接にかかわってきた神社は、少子高齢化や人口の一極集中、地方の過疎化や地縁血縁が薄らいだことなど、理由はさまざまあるでしょう。日本創生会議の座長を務める増田寛也元総務大臣が中心となってまとめ、話題になった「消滅可能性都市」という言葉をご存じでしょうか。全国で896もの自治体が2040年までに消える可能性があると、その会議では指摘しました。実際に市町村が消えるわけではなく、人が住まなくなって行政サービスの維持が困難になるということですけれど、それはつまり、その市町村にある神社やお寺も維持が困難になり、存続が難しくなる可能性があるということでもあります。具体的な宗派を挙げると、高野山真言宗や曹洞宗、神社本庁、黒住教などでは25年後までに40パーセントものお寺や神社が消えると言う専門家もいます。
 

 このたび、淨泉寺の本堂の改修工事が終わり、ご本尊である阿弥陀如来像が富山県内の浄土真宗本願寺派のお寺の本堂から正式にお遷りになられました。このお寺は平成17年に解散されています。私が生まれ育ったお寺の隣りにあり、幼少時遊んだ記憶もあります。このお寺はかつて、香華につつまれた本堂を熱心な門信徒が埋め、お経とお念仏で本堂は打ち震えていました。ご本尊様にはたくさんの方が手を合わせ、そしてたくさんの方がこのご本尊様に見送られてお浄土へ還っていかれました。お浄土でまた会おうねと、おっしゃっているかのお顔をなさっています。お寺は安心して死ねる場であり、だからこそ安心して生きる場でした。しかしご住職がご病気になり、後継住職がいないなかで活動の継続は難しく、ご本尊様は本堂にしばらくの間、ひっそりとたたずんでおられました。誰からも手を合わされることなく、ひっそりと。ご縁あって私が埼玉にお寺を建立する発願をして、忘れもしない平成23年6月20日、このご本尊様をお迎えに参りました。新たにお寺を建立するなら、ご本尊様も新たにお造りするのもひとつの考えですが、お寺が解散になった後に宝物類をお預かりしていた富山浄泉寺の住職の、さらに病床にあったご住職皆さまのご意見で、こちらのご本尊様とお仏具を使いたい(不遜な表現ですが)と思っておりました。以来4年に渡り借家で活動した時代、そして当地を購入して移転してからは仮本堂として、窮屈な場所で、思うように参拝者も集まらず、ご本尊様にはご不便をおかけし通しでした。だからこそ先日6月12日早朝、ご本尊様をご安置し、初めてのおつとめをしていて、胸にこみあげるものがございました。そのときの想いを、私は終生忘れないでしょう。

 富山県でお寺が消え、埼玉県でお寺が新たにできました。淨泉寺のように新たに開かれたお寺も、維持が困難になる時代が必ずや来ます。人の世はすべて、浮き沈みでできています。浮かぶときがあれば必ず沈むときがあり、形あるものは消えゆく。ゆえに、安住せずに精進を続けなさいと、お釈迦さまはご遺言なさいました。これからも精一杯精進させていただきます。皆様どうぞよろしくお願いいたします。(住職)

0 コメント

2015年

2月

03日

お墓と仏壇の関係

「お墓が遠方にあってお参りになかなか行けず、お墓の将来が不安」というお悩みをお持ちの方は多いでしょう。大家族が核家族へと変わり、若い人は地方を離れて都会へ移り、少子高齢化が進んでいることもあって、すでに地方のお墓を継承した人やこれから継承しなければならない人にとって、ご先祖さまのお墓を今後どう考えていくか、頭の痛い問題です。墓地の永代使用権は子々孫々まで継承されますので、お墓の永代使用権を持つ代表者の方が亡くなれば、それを継承する人は契約を結び直さなければなりませんが、その手続きを怠ったり新たな継承者がいない場合、いても名乗り出ず連絡もつかない場合は、永代使用権が無効となり墓地が更地に戻されるという最悪のケースも起こり得ます。また女性の継承者のなかには、自身のご実家のお墓とご主人のご実家のお墓の両方を見ているという方も少なくありません。ご夫婦で計7か所ものお墓に毎年お参りしているというお話も聞いたことがあります。しかしお墓をお移ししたり永代供養墓への改葬には、お墓の規模にもよりますが墓石の撤去、移転先の墓地の使用料、墓地の工事などを含め百万~三百万円程度の経費が必要で、経済的な理由から遠方のお墓をそのままにしておられる方、新たなお墓をなかなか買い求められない方が少なくないと思います。また、愛着ある土地からご先祖さまをお移しすることに抵抗もあるでしょう。

 もし、お墓をお移しするか、お仏壇をお移しするか、どちらを先にするべきか迷われたら、お仏壇を優先してください。理由はお墓とお仏壇、それぞれの性格の違いにあります。まずはお墓との距離、お仏壇との距離の違いです。お墓に出かけるのはご両親のご命日、春秋のお彼岸、そしてお盆ぐらいですが、お仏壇は家の中にあって朝な夕なに拝むもので、生活の身近にあります。また故人の墓前にお参りしたいという人を、お墓まで案内することは難しくても、お仏壇にお線香をあげていただくことは容易です。そして何と言いましても、お仏壇は仏教を信仰するという一家のシンボル、そしてご先祖さまに手を合わせ頭をたれる心を親から子へ、子から孫へ伝える大切な場です。総合的に見て、お仏壇は一家の中心になれますが、お墓は一家の中心になれないとわたしは思います。ご実家のお仏壇が大きすぎて譲り受けることが難しければ、新たにお求めください。大きさにはこだわらなくて大丈夫です。そしてお仏壇はいつ、どんな動機で買っても構いません。「家族に死者が出なければ買ってはならない」「お仏壇を買うと新仏が出る」という俗信を耳にしますが、これは葬儀後に仏壇を買うケースが多いところから生まれた迷信で、まったく根拠はありません。購入の動機は「永年の念願がかなった」「自分や家族が大病にかかったが、苦労の甲斐あって全快した」「低迷していた会社の業績が上昇した」「待ちに待った子宝に恵まれた」「息子や娘家族が家を新築した」など様々です。自分の念願がかなって生かされているのも、ご先祖さまのおかげという感謝の気持ちが何より大切です。もちろん葬儀や法事といった必要に迫られて購入なさっても良いですが、そういうときほど物入りが重なって資金に苦しく、慌ただしく不安な気持ちでゆっくりお仏壇を選べない状況が考えられます。経済と時間に余裕のある時、またお元気な時にご用意いただくと、心にゆとりも生まれます。そのことで安心して手を合わせる満足感と安心感を生み、ご先祖さまに見守られて家族が静かに暮らせていると実感できる、お仏壇本来の役目が果たせます。買い替えで不要になったお仏壇は、菩提寺を通じて他人に寄贈することもできます。つまり、経済的な理由からお仏壇を買えないご家庭との橋渡しを、菩提寺にお願いするというもので、新しいご家庭に使っていただけばお仏壇もご先祖さまもさぞ喜ばれることでしょう。

 「南無阿弥陀仏」と書いた掛軸を家庭に掛けていたのが、お仏壇の起源と言われます。つまり、浄土真宗が最初なのです。(住職)

0 コメント

2014年

12月

18日

映画「崖の上のポニョ」に仏さまの世界を感じます

宮崎駿監督のアニメーション映画「崖の上のポニョ」を見ました。これは海に棲むさかなの子ポニョが、5歳の男児、宗介と一緒に生きたいと、わがままをつらぬき通す物語です。


さかなの子ポニョには稚魚のいもうとが沢山いて、そのいもうと達の助けを借りて、父の魔法を盗んで5歳の女の子に姿を変え、狭い水球のなかでの生活を抜け出すところから、海面を覆う多くの魚の背を走るようにして岸へ向かい、お目当ての宗介が住む崖の上の一軒家へたどり着くところまでが、ひとつの山場として描かれています。


観る者を引きずり込む圧倒的な迫力の映像が本当に素晴らしく、しかしもうひとつ特筆すべきことを挙げるとすれば、描かれている世界観が仏教の世界観に似ている点です。宮崎駿監督は宗教色を払拭して、子ども達の愛と冒険を描かれており、「仏教からモチーフを得ているのでは?」というのはわたしの邪推に過ぎません。つまり、「仏教にも同じような世界が描かれている」という程度と思ってください。


いもうと達はポニョを助けたい、思いを叶えてあげたい。応援するたくさんのいもうと達が、ポニョを先頭に海のなかを進んでいる姿は、仏説無量寿経や仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経に説かれた「諸菩薩が阿弥陀如来をほめ讃え、来迎する図」にとてもよく似ているなと、わたしは思いました。おすくいくださる阿弥陀如来が、たったひとりでは寂しい。できれば、数々の菩薩がみんなで阿弥陀如来を支え、ともに行動したうえでわたしを救ってくださるほうが良いなあと、誰しも思うはずです。阿弥陀如来を中心としたお浄土と世界観は、そのような経緯をたどってお釈迦様没後に作り出されたものですから、お経が発達する以前から人類の願望にあった、わたしたちひとりひとりを、みんなで応援し、支え、ともに行動してくれる共同体を望む声が大きく、お経に反映されたのではないかとわたしは思います。

 

大きな宇宙にはいろんな名前の仏さまと菩薩さまがおいでになる。いろいろあるんだけれども、阿弥陀如来が一番強く、一番お優しいというのが、三つのお経の根底に流れています。そのメッセージはお坊さんの世界だけで発達したのではなく、宗教も言語も肌の色も違うすべての人類共通の願いとして、それがお経に反映されたに過ぎません。ポニョに描かれた世界がわたしたちの胸を打つのと同じように、これらのお経を読んだご先祖さまの胸にも「あなたをひとりにしない。みんなで応援しているよ」というメッセージがきっと届いたことでしょう。

0 コメント

2014年

9月

19日

地獄は一定すみか

 親鸞聖人のお言葉が『歎異抄』の第二章にあります。 

 おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々] 

 歎異抄第二章は文中の「とても地獄は一定すみかぞかし」の言葉で知られます。「わたし親鸞には、どうしても地獄以外に住み家はない」という告白の背景に、80歳を超えてから長男善鸞を義絶したことなどの影響も考えられますが、日々親鸞聖人が地獄の苦しみの只中を生きる一人の人間として、こころからの思いを語る場面です。それにしてもわたしたち現代人は、あまりにも地獄を語らなすぎて、反面で浄土(天国)のことばかり語っていませんか?

 本章は770字、原稿用紙一枚に満たない短い文章ですが、そのなかに浄土(あるいは極楽)という語は2回、地獄は4回、念仏は6回も使われ、念仏と浄土・地獄との関係を明らかにする章になっています。しかし親鸞聖人は、念仏が浄土へうまれる因(たね)にはならない(だろう)し、また地獄へおちる業(因)にもならない(だろう)けれど、そもそもわたしにはまったくわからないと話し、関東から京都までわざわざ訪ねてきた人に対して冷淡ともとれる応対をしています。
阿弥陀如来の西方浄土への往生を説く浄土教は、平安時代から鎌倉時代にかけて大いに広まり、貴族から庶民にいたるまで、激動の世を生きる人々がこぞって死後の安楽を願いました。その背景として、地獄の様子を細かく描いて地獄へ落ちる恐怖を植え付けた源信和尚の『往生要集』などの書物や地獄絵図の絵解きを通して、子どもから老人に至るまで広く民衆のなかに迷いの世界(とくに地獄)を離れ、理想の世界(浄土)へうまれたいとする対比があったことが大きく影響しています。

 経典には浄土の様子が説かれます。『仏説阿弥陀経』には阿弥陀如来の西方浄土が、「極楽国土には七重の欄楯(らんじゅん)・七重の羅網(らもう)・七重の行樹(ごうじゅ)あり。みなこれ四宝周匝(しゅうそう)し囲繞(いにょう)せり。(中略)極楽国土には七宝(しっぽう)の池あり。八功徳水(はっくどくすい)そのなかに充満せり。池の底にはもっぱら金の沙(すな)をもつて地に布(し)けり」と、金銀財宝によって彩られた極彩色の世界として描かれています。
これに対して平安時代の源信和尚は、なまなましい言葉で地獄を描きます。「十八の獄卒(ごくそつ)あり。頭は羅刹(らせつ)のごとく、口は夜叉(やしゃ)のごとし。六十四の眼ありて、鉄丸を迸(ほとばし)り散らし、鉤(まが)れる牙は上に出でたること高さ四由旬、牙の頭より火流れて阿鼻城に満つ。頭の上に八の牛頭(ごず)あり。一々の牛頭に十八の角ありて、一々の角の頭よりみな猛火を出す」。
 
 現代人には浄土、地獄のどちらも空想的な描写で、作り話にしか映りません。しかし源信和尚は地獄の恐ろしい様子を描き、さらに餓鬼、畜生、阿修羅、人、天を、理想の世界である浄土と対比して描くことで、六道はわたしたちから離れたところの話ではなく、わたしたち自身なのだと説きました。わたしたちは日々地獄のなかに生きている、一日のうちに何度となく六道を輪廻している、それは厭うべきことで、故にそこからの離脱が必要だと説いたのです。

 浄土教の根本聖典である『仏説無量寿経』には、阿弥陀如来の第十八願によって一切衆生が阿弥陀如来の浄土へすくいとられるものの、ただし「五逆罪(ごぎゃくざい)を犯したものと正法(しょうぼう)を誹謗(ひほう)したものを除く」とする制限(抑止文(おくしもん))があります。五逆罪とは(1)父を殺し、(2)母を殺し、(3)阿羅漢を殺し、(4)仏を傷つけ、(5)教団の和合を破ることで、また仏の説く法(正しい法)を誹謗するならば、阿弥陀如来であってもすくわないというのです。この経典はインドの宗教家によって作製されましたが中国に伝わって翻訳され、善導大師によって「大悪人であっても、回心したならば西方浄土へ往生できると」と解釈が大幅に変えられました。さらに日本へ伝わり、法然聖人のよってさらに「地獄へ落ちて当然の悪人こそが、阿弥陀如来のすくいの目当てである正客だ」とする悪人正機説になりました。これはインドの宗教家によって作製された経典からは、まるっきり正反対の立場です。しかし法然聖人が阿弥陀如来の第十八願をこのように受け止めたからこそ、親鸞聖人はお念仏の教えに出遇うことができたのです。地獄のまっただ中を歩いていた親鸞聖人は、同じように地獄のまっただ中を歩いていた法然聖人に出遇い、阿弥陀如来の第十八願をやっと聞くことができたのです。地獄しか住み家のないわたしという言葉は、親鸞聖人の本心だったと思います。

 親鸞聖人はじめ多くの門弟に向かって法然聖人は、「この世のいのちが終われば、わたしと同じ所へ参りたいと思ってお念仏なさい」と語っていたといいます。法然聖人を通して阿弥陀如来の第十八願を聞かせていただいたからには、地獄だろうが浄土だろうがもはや問題にならない生き方に転じられました。このお念仏の味わいと同じであれば、この世のいのちを終えるとき、そこが地獄だろうが浄土だろうがそこにわたし親鸞もいるし、ほぼ間違いなく法然聖人もいらっしゃって、善導大師も釈尊もいらっしゃるだろう。一味(いちみ)の念仏という言葉は、この味わいから出てくるのでしょう。

0 コメント

2014年

7月

11日

浄土真宗本願寺派の仏教讃歌

 浄土真宗本願寺派の仏教讃歌は明治時代から作詞作曲されるようになり、これまでに270曲あまりが作られ、国内にとどまらず海外に渡った日系人の間でも歌われてきました。教会音楽に比べ歴史も数も及びませんが、一曲一曲こころの琴線に触れるものがあります。

 

念仏
   作詞 山本有希子
   作曲 森  琢磨
   (2003年発表)

1.南無阿弥陀仏 となえれば
  憂いの心 波にきえ
  南無阿弥陀仏 となえれば
  無量の光 際もなし

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

2.南無阿弥陀仏 となえれば
 無明の闇に 光満ち
 南無阿弥陀仏 となえれば
 永久に尽きせぬ 歓喜のいのち

 南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

 

「念仏」は念仏が湧き出てくるようにとの願いから生まれた曲です。阿弥陀如来の名を口にするとき、はかり知れない光といのち(無量光と無量壽)が苦悩を抱えたままのわたしを照らします。

 

 

 

やさしさにであったら
   作詞 久井ひろ子
   作曲 湯山  昭
   (1982年発表)

1.やさしさに であったら
  よろこびを 分けてあげよう
  しあわせと おもったら
  ほほえみを かわしていこう
  海をふく 風のように
  さわやかな おもいそえて

2.さびしさを かんじたら
  だれかに 声をかけよう
  ふれあいを たいせつに
  語りあう 友をつくろう
  花の輪を つなぐように
  とりどりの おもいつないで

3.くるしみに であったら
  ひたすらに たえていこう
  合わす掌の ぬくもりに
  ほのぼのと やすらぐこころ
  かぎりない ひかりのなかに
  生かされて 生きてゆく日々

 

 

 また、「やさしさにであったら」は仏教婦人会設立150年記念の公募作品から選ばれた詩です。詞を書いた久井さんは当時57歳、浄土真宗が盛んな広島県にお住まいの一般女性です。戦争のなかで青春時代を過ごされたから、「くるしみにであったら ひたすらにたえていこう」という強い詩になったのでしょうか。それでもなお、わが人生を振り返って「生かされて 生きてゆく日々」と言える穏やかな人は、本当に素敵だと思います。

1 コメント

2014年

7月

02日

お盆を考える

今年もお盆の季節になりました。盆踊りの盆と語源は同じですが、お皿や茶碗を載せるお盆に由来しているわけではなく、古代インドのサンスクリット語「ウッランバナ」が、中国においてその音から[盂蘭盆]と漢字が当てられるようになった言葉が元になっています。ウッランバナとは「逆さまに吊るされること」という意味で、それには次のような故事が伝わっています。

ある日のこと、お釈迦さまのお弟子のひとり目連尊者は、亡き母が目連可愛さのあまりに他人に対する吝嗇の報いで、餓鬼道(常に餓え、苦しまねばならない世界)に落ちて、逆さまに吊るされていることを神通力で知り、何とかして救いたいとその方法をお釈迦さまにお尋ねしたところ、雨期(旧暦4月半ばから7月半ばまでの三か月間)明けに修行者たちに供養すれば救われるとお釈迦さまはお教えになりました。そしてお釈迦さまの教えに従った目連尊者は、その功徳によって母親に極楽往生を遂げさせたというものです。この故事にちなみ旧暦7月15日前後が両親や祖父母、ご先祖さまに報恩感謝し、その供養を通して功徳を積む重要な日となりました。

現在のお盆は7月または8月の13日から16日までを指します。この4日間は釜の蓋が開いて地獄は空っぽになるとまで言われ、各家庭では13日夕方に迎え火を焚いて先祖の霊をお迎えし、期間中に僧侶を招きお経や飲食の供養し、16日夕方に送り火を焚いてご先祖さまにお帰り頂くとするのが一般的ですが、浄土真宗では供養を縁に自分自身のいのちを見つめる期間といただき、ご先祖さまはお盆の期間にだけ帰ってくるという考え方をいたしません。浄土に生まれるのも、浄土から娑婆へ還るのも人知を超えたはたらきといただかれた親鸞聖人は、俗信を厳しく戒められました。

そもそも、わが国最初のお盆の行事は、推古天皇の14年(606年)、奈良県明日香村の飛鳥寺で行われたと伝えられます。これは、仏教がわが国に伝来したばかりの時代です。ご先祖さまを供養する風習は仏教伝来より以前からあったわけですから、見方を変えれば、それまでの間さまざまな形で行われていた風習を仏教が取り込んだのかもしれませんし、または中国朝鮮から伝わった仏教が日本をひとつにまとめていくために利用されたのかもしれません。はっきりとした背景はわからないのです。それ以来お盆は、宮廷や貴族また武士などのいわば上層階級だけで限定的に催されていたようですが、江戸時代までに市民生活も豊かになり、ロウソクや提灯も安価になったこと、また檀家制度が定着したことなどから、お盆の行事が広く一般にも定着しました。夏の京都の風物詩である五山の送り火も江戸時代までに定着したようですが、お盆の日を中心に全国各地で行われる打ち上げ花火や盆踊りもご先祖様へのさまざまな供養のこころを形にしたものだと言われています。

天皇家の菩提寺として有名な京都の泉涌寺では、昭和天皇をはじめ歴代天皇の位牌や尊像をいまもお祀りしていて、お盆の法要を毎年7月にお勤めしておられ、この法要には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が続いています。奈良時代の聖武天皇から江戸時代末期の孝明天皇までの葬儀は仏式で勤められていて、天皇家と皇室の宗旨が仏教から神道へ改められたのは明治時代、神仏分離と廃仏毀釈が進められたことと深く関係します。幕末の尊王攘夷運動の精神的な柱になった国学や水戸学のなかから、新しい「日本のこころ」を明治新政府は神道に求めました。京都御所のなかにあった仏間「お黒戸」には歴代天皇と皇后の位牌が祀られていましたが、京都から東京への遷都、それにともなって旧江戸城が宮中と変わるなかでお黒戸は泉涌寺に移され、宮中には新たに神殿が整備されました。こうして歴史を見ますと、私たちの生活のなかの供養の形も、今後ますます変わっていくことでしょう。それも、ますます宗教色をもたない姿に。そしてお盆の行事の由来や名前の由来を知る人は減り、最後に残るのは、盆休みという言葉だけになるのかもしれません。 (住職)

0 コメント

2014年

4月

04日

西本願寺大谷光真門主が御退任

大谷光真門主
大谷光真門主

 西本願寺住職であり浄土真宗本願寺派第24代門主の大谷光真門主(67)は本年6月5日で御退任され、第25代門主に長男の光淳新門(35)が御就任されます。門主の交代は1977年以来、37年ぶりのことです。本願寺派の門主は宗祖親鸞聖人の子孫で、約750年にわたって血脈でつながって参りました。光真門主は父の光照前門から31歳で門主職を御継承され、全国500余りの組すべてを御巡教されただけでなく、北米やハワイ、欧州などの海外開教区へも精力的に赴かれ、財団法人全日本仏教会会長として国内外に向けて積極的に御発言され、御著書も多数あります。本願寺派の僧侶は、当時の門主を戒師といただいて得度するのが伝統で、わたしは18歳で得度いたしましたが、当時の戒師は光真門主でした。光真門主が戒師となってくださったことで、中身が整わない未熟なままでも僧侶とならせていただき、わたしにとって光真門主は善知識です。善知識とは真理に導いてくださるかけがえのないお方を指す仏教の言葉で、お経に「善知識にあい、法を聞き、よく行ずること、これまた難し」(『仏説無量寿経』)とあります。


 その光真門主の御法話には優しいお人柄が本当によく出ているといいますか、御著書の文章にも優しさを感じるといいますか(誠に恐れ多いのですが)、なかでも2007年に立命館大学で行われた連続講義「現代社会と宗教」で、受講生の質問への応えをいまも時々読み返します。それは、連続講義の内容に対する質問を受け付けたところ、講義のなかでは応じきれない量が寄せられため、質問すべてに光真門主が後日、文書で回答されたもの集めた記録です。質問とはいえ、伝統教団から新興宗教までをひとくくりにして「宗教は嫌いだ」というものから、世界各国にみられる宗教と戦争の歴史、伝統教団の説く教義が現代社会からかけ離れていることなどを批判するものまで様々あります。一例をご紹介しましょう。


 学生:「阿弥陀仏を信じることによって救われる」の「救われる」や「極楽往生」の考えをあまり実感できません。それについてお話ししてくださると嬉しいです。
 光真門主:一度本を読んだり、話を聞いたらわかるというものではありません。また単に頭、知識だけで理解するというものでもありません。折にふれてご法話などを聞いていただき、経典のお意を語った仏教書、信仰に生きる人に接することが大事なのではないでしょうか。そういうことを通して、阿弥陀仏のお浄土からのはたらきに気づかせていただくのです。そのことが救われることにつながります。
 一つ注意しなくてはならないのが、凡人の体験のみに固執しすぎると、妄想と真実を取り違える恐れがあるということです。言葉による表現、体験談、譬え話など、これらは宗教的な内容を指し示すものであって、真理そのものではありません。これらによって示された真意を受け取らねばならないということです。
 例えば極楽浄土は、私たちの先達として、法然聖人、親鸞聖人が阿弥陀さまを信じてお念仏申して往生(往き生まれる)されたところ、わが祖先が、わが両親が阿弥陀さまを信じて往かれたところと、思い浮かべてはいかがでしょうか。夕陽を見て、西方極楽浄土へのおもいを深めた人々も多いことです。
 「救われる」ことの一つは往生成仏することですから、この世で体験することはできませんが、人生の方向、目的地が確かになるという意味で、この世の人生生活の支えとなります。特に、人生の上で辛い時、不安な時、何か(阿弥陀さま)に支えられている、見守られていると感じられれば、受け入れ、乗り越えることができるでしょう。これが二つめのこの世で「救われる」ことです。
 さらに申しますと、この二つめの「救われる」は自分の姿を知らされる、有限な人間であること、何かのきっかけでとんでもないことを言ったり、したりする私であることを知らされるとともに、その私の全体が阿弥陀如来によって支えられている、受けとめられているという、深いめざめをともなっています。そこから生きる喜びや、他のいのちと共に生きるすばらしさ等の実感が育ってきます。

1 コメント

2013年

10月

23日

親鸞聖人御消息第一通を味わう

 親鸞聖人御消息第一通の冒頭、「有念無念の事」というタイトルは後世に何者かが書き加えたメモとされ、全体は臨終の来迎(お迎え)のこと、次いで正念のこと、そして有念無念のこと、また教えに(しん)()があること、最後に釈迦如来の善知識のことが記された内容となっています。ひとつひとつの項目は読んで理解できないことはないとしても、全体を通して何かしら不明瞭な感じがするのはこれが手紙の「返信」であって、これに対応する「往信」を読まないことには、つまり質問を読まないことには全体を把握することは困難ですこれまで歎異抄を読んでまいりました経緯を元に、仮にその質問を書き出すとするとおよそ次のようになるでしょう。

 

 「『観無量寿経』には臨終に阿弥陀如来と菩薩方のお迎えがあることが説かれています。しかしそのお迎えを受けるには臨終に心の乱れがない、正念の境地で往生を願うのでなければなりません。その正念の境地とは有念でしょうか、それとも無念でしょうか。また<下品>では臨終の正念や仏のお迎えについて、善知識が重要な役割を演じていますが、善知識とは誰にでも必要なものでしょうか。釈尊は師無くして独りで悟りを開かれたと聞きます。釈尊は例外なのでしょうか」。

 

 信心深い人は臨終に阿弥陀如来や菩薩方のお迎え(来迎)のあると、『観無量寿経』に説かれています。そのお迎えの様子は一様ではなく、それは生前の行い(業)によって分かれると説かれます。しかし親鸞聖人はそれを方便(仮の教え)と見られ、南無阿弥陀仏という仏のみ名を与えてすくうという念仏往生の誓願には、生前の行いによってすくいが分かれることなく、すくいはひとつであるとし、臨終を待つことなく平生に誓願を受け取る、おまかせするようお示しくださいます。さらに経にいう正念は私の心の状態を指すのではなく、南無阿弥陀仏そのものが正念なのですと、つまり逆方向のベクトルのはたらきによって私は「まさしく念じられている」、それが他力の正念だと味わわれました。

 

有念や無念については聖道門の考え方だとお示しになっておられるのは、当時信心の境地を有念だ、あるいは無念だと語る人によって混乱が生じていたのでしょう。限られた情報のなかで当国の門弟たちは、本願力回向の念仏をどう受け止めるべきか、模索を続けていたのではないかと想像されます。これに対し本願力回向は一面他力、全面的な他力だと親鸞聖人はお示しになられ、また不可思議の教えだと味わわれたのですが、こうした書簡の往復を通して、「わたしがどう受け止めるべきか」についとらわれがちな人間の姿が浮かびあがってくるような気がいたします。

0 コメント

2013年

9月

27日

松本紹圭さんの講演会の御案内

☆☆☆松本紹圭さんの講演会のご案内です☆☆☆
10月5日、未来の住職塾で知られる松本紹圭さんの講演会を開きます。テーマは「お寺はいのちの学校-これからのお寺の100年」。

<開催要項>
2013(平成25)年10月5日(土)14時-15時30分(13時開場)
会場:フレサよしみ小ホール(吉見町民会館)
参加無料(自由席、定員100名、先着順)
http://www.j-yoshimi.net/

住職も「未来の住職塾」に関心があったものの遠方で参加がかなわず、ならばご講師にお招きして学ぼうと思ったのが開催のきっかけです。仏教に興味がある方、是非ご参加ください。参加申込はとくに必要ございませんが、席を確保しておきたいお方は上記URLより予約画面にお進みいただくか、当寺へお電話ください。

0 コメント

2013年

9月

23日

よくよく考えてみれば、わたし一人の願いだった

  親鸞聖人は35歳の1207年に京都から越後にご流罪になり、1211年赦免された後も伝道教化のためしばらく越後に留まった後、1214年に上野佐貫(群馬県)で三部経千部読誦を発願・中止して常陸(茨城県)へ向かったと資料に残されていますので、2014年は親鸞聖人関東ご入国800年にあたります。伝道教化の場として、なぜ関東を選ばれたのかはっきりしませんが、法然聖人門下でともに学んだ念仏者を中心とするグループが既にいくつかあり、親鸞聖人は教学顧問のような存在だったと考えられ、それが大きな理由になったのではないかと現在では考えられています。『親鸞聖人門侶交名牒』には48名(洛中7名)、『二十四輩牒』には30名(重複を除く)、合計すると70名あまりの念仏者のグループが、下野、常陸、武蔵、奥州、遠江、越後に点在していたとされます。法然聖人亡き後、次第に異解が広がる様子に危機感を募らせ、念仏の「正しい教え」を伝えなければという使命を人一倍強く感じていらっしゃったはずです。

 正しい教えと言うと「立場が変われば正しいという理解も異なる」と反論される方もあるでしょうから、ここで言う正しい教えを「法然聖人の教えに立脚した」と言い換えても構いません。歎異抄後序と御伝鈔にあらわされた信心一異の諍論では、親鸞聖人が「他力よりたまはらせたまふ」と信心が一つである理由をあきらかにし、これに対して法然聖人が信心には同異がある、それは自力の信と他力の信の別があるからだと答えられた、吉水でのやりとりが描かれています。法然聖人は口癖のように「自らのはからいが無い、それが本願力回向です」と語り、称名念仏する人すべてが往生するのでしょうかと尋ねられれば、「それが他力の念仏であれば往生浄土いたしますが、自力の念仏では往生は無理です」(『念仏往生要義抄』)とお答えになったお方です。師の教えを承けて親鸞聖人は、本願力回向を受けた信心はすなわちひとつであると語り、異解が生じてくるのは異なった信心を持っているからであると、その信心が如来よりたまわったものでなく、各自が自己のはからいによって造りあげた自力の信心だからだと指摘されました。念仏はそれがすでに無上の徳を持つと経典に示され、称えることと聞くことで徳を味わうのだと浄土教でいただきます。それは称えることや聞くことによって何かを付け加えようという世界ではないのです。

 歎異抄後序に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とあります。わたしたちは燃え盛る家にいるようだという譬えの背景には、煩悩の炎に身を焼かれるすべての人の真っ只中にあって、わたし(親鸞)こそ最もひどいんだと、わたしこそ「底下の凡愚」なんだとの親鸞聖人の心からの叫びが隠されています。だからただ念仏しかないと、「ただ」といただかれるところへつながっていくのです。仏法にいろいろあるけれど、「この」わたしには「ただ」これだけなんだと。「この」と「ただ」に至るまでがとても長い道のりですが、宗教とは「この」と「ただ」に導かれるもの、私はそう思います。

 親鸞聖人は生前こうもおっしゃっていました。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」。法蔵菩薩でありし頃、世自在王仏にお会いして以来、五劫というとてつもなく長い時間にわたって阿弥陀如来が自らに問いつづけたのは、世界は不平等や苦悩に満ち、人々は互いを差別しながら束縛しながら生きていることに対し、わたしは何ができるのか、世界と人々にどう答えるべきかということでした。そして、南無阿弥陀仏という仏のみ名を与えてすくうという念仏往生の誓願を立て、この誓願を永劫の修行によって完成して阿弥陀如来となられたのだと、経に説かれます。仏のみ名を称える念仏往生だけが平等のすくいであり、法然聖人は本願力回向の念仏を選び取られ、その理由を「阿弥陀如来の願いがわたしにそうさせたのだ」と味わわれました。なぜなら、それがみ名の力だからです。日本人は古来、名前に力が宿ると信じ、釈尊入滅後のインドでもそう信じられ、仏のみ名を称える念仏が生まれ、仏教は世界的に広まりました。世界が不平等や苦悩に満ちていることも、人々が互いを差別しながら束縛しながら生きていることも、阿弥陀如来のなかでは既に解決した。「よくよく考えてみれば」(親鸞聖人)その力をいただく以外に苦悩を超えていくなどできないわたしでありました、の嘆きと喜びが聞こえます。

0 コメント

2013年

7月

24日

こころのリセット

 お釈迦さまは生まれによる差別を否定され、平等を説かれました。「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとなる」(ブッダ『スッタニパータ』岩波文庫)。お釈迦さまのお生まれになったインドは、牛が猿が車の行き交う道路を悠々と渡り、人の遺体が川のほとりで荼毘に付され、あらゆるいのちが混然一体となって本来平等であると考える国です。しかしながら閉鎖的な身分制度がいまも残り、生まれによる差別が根強く残る国でもあります。その国にあって、お釈迦さまは生まれによる差別を否定し、あらゆるいのちの平等、非暴力、非戦を説きました。「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『ダンマパダ』)。殺してはならないという非暴力の教えは平等の教えと密接につながり、互いに補完するものです。「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(同)。怨みを捨てなさいという非戦の教えも平等の教えと密接につながるもので、これら平等、非暴力、非戦はお釈迦さまの教えの根幹を為します。
 
 後に大乗仏教として発展するなかですくいだけでなく慈悲が重んぜられるようになり、慈悲の実践として教育や医療、土木事業や貧民救済の活動が各時代で様々に見られるようになりました。聖徳太子は怪我や病気で苦しむ人のために薬草を育てる施薬院(せやくいん)を四天王寺境内に開いたと伝えられ、行基(ぎょうき)は生活困窮者のために布施屋(ふせや)といわれる無料宿泊所を設置しました。さらに法然聖人の専修念仏、親鸞聖人の悪人正機、自然法爾、還相回向、同朋同行という思想は、わたしたちの無意識の深層に他を思いやるこころの尊さを植え付けました。

 次第にこうした大乗仏教の慈悲の考えは、実に多くの経典と教学とに分かれました。あまたある教学について優劣を競うかのような議論は、「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」と言われ、たしなめられています。すくいに優劣も差もありません。辺地往生と報土往生にふたつの往生があると言われた親鸞聖人のおこころを伺うと、ただ報土往生を薦める強いお気持ちを感じることはあっても、仮に従わなかったら地獄へ落ちるぞという脅しのニュアンスを感じることはありません。蓮如上人は「信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」と厳しくおっしゃっていますが、それも脅して言うのではなく、ただひとえに専修念仏をお薦めくださるお気持ちとわたしはいただきます。布施の多寡によってすくいの差が生まれるかのような説き方は誤まっていると唯円は言う一方で、『歎異抄』のなかですくいの世界を向いて生きる生き方を薦めておられます。あらゆるいのちが平等であるといただいたところから、自他が同一とする世界といただいていくところに、優劣も差もないことは明らかです。
 
 お釈迦さまの教えはこころのリセットです。いろいろあったときに一度こころを無くしてみる。こころを完璧に無くすということはできなくても、無くすイメージの重要性を説く、それを無我という言葉で表します。これに対して西洋哲学ではこころの整理を説きます。我考えるゆえに我ありと言ったデカルトの言葉に、こころを整理して整頓して次の段階へ進もうとする西洋人ならではの考えを感じます。リセットを説く仏教と整理を説く西洋哲学、少々乱暴ですがそんな違いがあるとわたしは考えます。リセットした段階から次になにが浮かぶか。仏教は、人間の考えることなど妄想だ、人間の言うことなど妄言だという立場、ゆえに慈悲の実践の重要性を説きます。わたしに真の意味で真心などない、他者と自分が一緒であると見ることを究極的な理想としつつ、ともに生かされ、ともに生きていることを報恩感謝でお返ししていけるようになることを、この世で大切な行いであると説きます。リセットした次の段階を説いているのです。リセットし慈悲行、リセットし慈悲行、この繰り返しを親鸞聖人は「報恩行」という言葉で示されています。

0 コメント

2013年

7月

05日

お釈迦さまの道は「和をもって貴しとなす」

検察OBの知人は真剣な眼差しで言いました。「ご住職、罪を罰するとはどういうことか長年考えてきたけれども、答えが見つからない。仏教では一体どう説くのでしょう」。話はその方が現役検事だった頃にさかのぼります。資産家の夫人が自宅で殺された事件を担当、その事件は、刑務所服役中に知り合った三人の男が出所後、強盗目的で資産家の自宅へ忍び込み、居合わせた夫人の首を絞めて殺害に及んだものでした。男たちは実行犯と見張り役にそれぞれ役割を分けましたが、結果的に刑もそこで大きく分かれ、実行犯の男ふたりは死刑、見張り役だった男は懲役刑でした。「その殺害方法は残忍でしたが、いま思えば実行犯が自供した、その自供さえなければふたりの男が死刑になることはなかった。私はいまこの年齢になって、そのことが頭から離れません」。犯行が行われた部屋 の壁と床には、手の指でついたと思われる深い爪痕が残り、被害者の手指の爪には血痕が付着していたそうです。被害者がいかに苦しんだか、凄惨な状況に目の前が暗くなる思いです。

 

実行犯の取り調べは、その方と後輩のふたりで臨みました。男はなかなか自供せず、取り調べが 遅々として進まないなか、その方が手洗いに中座して戻ってくると、聴取室の空気はなぜか一変していました。男が殺害時の様子、殺害後も執拗に首を二度絞め た経緯を少しずつ話し始めていたのです。犯行現場を調べただけでは首を二度締めたことまで分からず、男が自供しなければそのまま闇に葬られていた事実で す。後輩から後に聞いたのは、手洗いに中座した時、金の懐中時計を机に置いたまま、聴取室を出た。残った後輩がその時計を指差し、「あの検事は大学を主席 で卒業された優秀で将来を有望視された人だ。正直に言えば再犯のお前も必ず刑を軽くしてくれる。話したほうがいいぞ」。そんなことをあのとき言ったと。この時の自供はすべて調書に記録され、その後しばらくしてこの方は別の任地へ異動。公判を引き継いだ先輩検事から、しばらくして電話がありました。「調書を読んだ限り、私は死刑求刑が妥当だと思うが、求刑が空欄のままだったので君の意見を聞きたい」というものでした。「あの時、あの自供を聞きさえしなければ。せめてトイレに立ったのがもうひとりの検察官で、私一人がその自供を聞いていて調書に書かずに済ませば、男は懲役刑で済んだのではないか。見張り役の 男のほうが非道な男だったのに、不公平だ」。いろんなことが頭の中を一瞬にして駆け巡りましたが、「先輩がそう思われるなら、そう進めてください」と受話 器に向かって言うのがやっとでした。

 

男は死刑判決を受け、執行されました。執行書類に署名する法務大臣も、執行のボタンを押す執行官も、死んだことを確認する検死官も、死刑につながる調書を作る検事も、一様に苦痛を感じて生きていることを、この方から伺って、わたしは 初めて知りました。最近は一般市民も裁判員として参加するようになり、死刑判決の瀬戸際で心に深い傷を負うケースがあるとも聞きます。法治国家において罪 を裁くことは法に基づいていても、法を作るのは人ですから、人が人を裁いていることに変わりはありません。では、仏教は罪を罰すること、人を裁くことをどう考えていいるか。仏教は世俗に関せず、すべてに空を説き、すべてを肯定し否定し、すべては赦され、他を怨んではならず、本質的に善も悪もない中道であり、生きとし生けるすべてが仏と考え、私を含めみんな悪人と見るなど、視点がさまざまあるなかで、ゆえに裁くこともせず、罪を罰することもない立場だと言えます。

 

その一方、お釈迦さまはお弟子に集団生活を求め、ルールを定め、ルールに反することを戒めました。仏教では 三宝を敬いますが、三つの宝のひとつ僧宝とは集団生活の大切さとそのなかでのルールを守ることをセットにして考えるものです。聖徳太子が十七条憲法で「和をもって貴しとなす」とお示しになられたのは、和合を旨とする仏教の根幹にあるおこころでした。罪を犯した者も罪を罰する者も本質的に赦されるかどうかは 永遠に正解のないテーマですが、お釈迦さまのメッセージを受け止めるならば、永遠の真理があるにせよ、決してそれを振りかざすことなく、どこまでも和合を目指すことの尊さではないかと思うのです。(住職)

0 コメント

2013年

6月

22日

親鸞聖人の三度の夢告

 『歎異抄』第16章に回心(廻心)という言葉が出てきます。犯罪者が罪を悔い改め、更生を誓う意味として用いられたりもしますが、キリスト教では「かいしん」、仏教では「えしん」と読み、信仰の転回を意味します。「すべての宗教に普遍的な現象で、回心なくして信心の確立はない」(岩波仏教辞典)とも言われ、『歎異抄』では「一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし」と生涯一度きりだと示されます。浄土真宗系の宗教団体のなかには、この回心を「一念覚知」という言葉に言い換え、何月何日何時何分と明確に自分で言えるまで、信徒に信心獲得を認めないところもあり、回心は信仰の上で避けて通れない問題です。

 親鸞聖人の回心は29歳、京都吉水の法然聖人門下にあったときでした。「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(『教行信証』)。雑行とは専修に対する言葉で、念仏以外のものもする修行から、ただ念仏を選ばれたという一文はあまりに有名です。一方、この回心に直接つながったと思われる三回の夢告が、親鸞聖人の『夢記』(真宗高田派専修寺蔵)と資料にあります。夢は神秘的な意味を持つと考えられていた時代でしたから、記録が残されていたのでしょう。それによりますと一度目の夢告は、親鸞聖人19歳の秋でした。止観の学習過程を終え、実践課程へ進む前に、奈良仏教六宗を見学する行脚の旅に出て、法隆寺参詣の後、足を伸ばして河内磯長の聖徳太子廟を参拝し、三日間の参籠をされました。この二日目の夜、「聖徳太子の声」として夢のなかで聴いたのが次の言葉です。「阿弥陀如来と観音・勢至菩薩が迷いに満ちた人間界を教化してくださるが、日本は大乗仏教が弘まるにふさわしい土地である。諦(あきらか)に聴け諦に聴け、わたしが教えるところを。おまえの寿命はあと10余歳しかない。しかし寿命が終われば直ちに弥陀の浄土に生まれるだろう。善く信ぜよ、善く信ぜよ、おまえが真に菩薩になるということを」。「和国の教主」と讃える聖徳太子が、夢のなかとは言え自分に余命宣告をしたのです。親鸞聖人には特別な夢だったでしょう。
 
 それから十年経ち、比叡山で御修行を続ける親鸞聖人が29歳になったとき、自分の命終が近づいていると感じた聖人は聖徳太子に真意を訊ねたいと、太子が語った先ほどの言葉を来る日も来る日も繰り返し唱えていたところ、無我の状態に入ったある夜更け、突然居室内に異光が充ち、如意輪観音が示現して、こう告げました。「善き哉(かな)、善き哉、汝が願、将(まさ)に満足せんとす。善き哉、善き哉、我が願も亦(また)満足す」。二回目の夢告です。当時如意輪観音は聖徳太子の化身と考えられていました。汝の寿命は伸ばそう、そして親鸞聖人が弥陀の浄土へ生まれる先の約束も必ず果たすと、聖徳太子がお告げくださったこの夢告が転機となり、聖人は聖徳太子ゆかりの六角堂へ百日間の参籠を始められます。それはただ、聖徳太子への感謝の気持ちからでした。聖徳太子は四天王寺を建立する際、用材を求めて京都へ足を運び、念持仏として肌身離さず携えていた如意輪観音像を木にもたせかけて池で水浴したとき、水から上がって像を手に取ろうとしたが像が重くて動かない。これは如意輪観音がこの地で衆生を救おうという意志を示しておられると思った太子は池のほとり、現在の六角堂の地で小堂を建立し、念持仏を安置したといいます。親鸞聖人は昼間比叡山の大乗院の一室で眠り、夕闇迫るころ山を下り六角堂へ向かい、夜明けのころに再び上山し眠りにつくという生活を繰り返していた95日目の寅の刻(午前4時)、救世観音が白蓮の花に端座して示現して、こう告げました。「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」(仏道に入って修行する人間<行者>が前世からの報い<宿報>で、たとい女性を抱くことがあっても、わたしが玉のような女性の姿となって抱かれてあげよう。そして一生の間わたしがその仏道者の身をよく包み守り<能荘厳>、臨終には導いて極楽へ生まれさせよう)。救世観音の顔立ちではあるものの白衣のうえに白い袈裟をまとっていて、これは聖徳太子に違いないと聖人は直感しました。太子はこの偈文をとなえ、「これはわたしの誓願であるから、一切の群生(ぐんじょう)に説き聞かせなさい」と聖人に命じ、聖人は「数千万の人々にこのお告げを聞かせなければならない」と思ったところで、夢から醒めたとあります。


 これまでの夢告が余命わずかであることを知らせ(聖人19歳)、余命を伸ばし往生浄土を約束(聖人29歳)というものだったのに対し、この「女犯の偈」はそれらと連続性がないものの、迷っていた聖人の背中を強く押したと想像できます。何を迷っていたか。最近の研究では聖人は六角堂での百日間の参籠中に吉水の法然上人の庵も訪ね、聴聞を重ねていたと考えられています。聖徳太子への感謝が六角堂参籠に至った直接の動機だったものの、参籠を百日間続けるうちに法然聖人の噂を耳にし、聴聞を重ねるうち、専修念仏を主張する法然聖人のご法話に深く感銘し、ご自身の信仰の上で難行道をさしおいて易行道に入り、聖道門を逃れて浄土門へと急速に移りつつあったなかで、「現世のすぐべき様(よう)は念仏の申されん様にすぐべし。(中略)ひじりで申されずば妻をもうけて申すべし。妻をもうけて申されずばひじりにて申すべし」(『和語燈録』)とおっしゃる法然聖人のお言葉に、最後は迷っていたのではないでしょうか。研究者には「法然聖人の言葉に背中を押されて親鸞聖人は妻帯された」と考える方もいらっしゃるのですが、お二人が運命的に出遇われる以前から篤く讃えていた聖徳太子の女犯の夢告が大きな転機になって、雑行を棄てて本願に帰す回心をなさったのではないかと、わたしには思えてなりません。ということからすると、生涯一度きりの回心に至るまでに、果たしてそれが進んで良い道かどうか、迷いながら最後に導き出された答えを回心と言うのでしょう。しかし、回心は決心とは異なります。すなわち、自分で選んでその道を進むよう心を決めるのではなく、その道を進まざるをえないよう背中を押されていく、それが回心なのです。

0 コメント

2013年

6月

03日

いまを生きる

 お釈迦さまの教えの原点は、「散心(さんじん)から定心(じょうしん)へ」という点にあったとわたしは思います。あれこれと思い悩み散漫なこころを不善とし、まったく波立っていない湖面のように澄み切ったこころを善とします。しかし唯識がこころのはたらきを51にも分類するのは、澄み切ったこころがいかに困難かを端的に表しているとも言えます。作家で天台宗僧侶の瀬戸内寂聴さんも言っています。「死ぬまで悟りなど得られないでしょうが、それでいいのです」(『生きることば あなたへ』光文社文庫)。定心や悟りとは、こころの完成です。いのちある限りこころの完成を目指しなさいとお釈迦さまは教えられましたが、現世で悟りを開いたお方はお釈迦さま以外にいらっしゃらないことからも、難行中の難行、わたしごときには一生かけても不可能とあきらめています。

 歎異抄第15章に即身成仏や六根清浄といった聖道門の考え方が引かれていますが、これらの教えは今生でこころを完成なさったお釈迦さまと同一の状態を目指すもので、52位ある菩薩道を限られた人生の時間のなかでひとりずつ登っていく世界です。一方で阿弥陀如来のすくいの教えは、今生でのこころの完成と対極にある考え方で、来生での完成を目指すものです。両者に教えの優劣があるわけでなく、お釈迦さまは人それぞれに合うよう教えを説かれました。その生き方はあきらめるのでもなければ、流されるのでもなく、他を非難するのでもなければ、自らを卑下するのでもない、言うならば、受け止めていく生き方でありました。

 お釈迦さまは言い残されました。「過去を追わざれ。未来を願わざれ。過去は、すでに捨てられたのである。また、未来はまだ到達していない。それ故、ただ現在のものを、それがあるところにおいて観察し、揺らぐことなく、動ずることなく、よく見極めて、実践せよ。ただ今日まさに為(な)すべきことを熱心に為せ。誰か明日、死のあることを知ろうや。まことに、かの死神の大軍と遇わずにすむはずがない。このように見極めて、熱心に昼夜おこたることなく努める者、かかる人を一夜賢者といい、寂静者というのである」(中部経典『マッジマニカーヤ』131)。いたずらに過去を悔い、未来を憂いてはいけない。いまを生きなさい、と。
 
 余談になりますが、わたしは今朝車を運転していて、前方の道路に急に舞い降りてきた一羽の雀を轢いてしまいました。これまでいっぱい鶏肉を食べてきたくせに、自らの手でひとつのいのちを殺めてしまったこの事故が、本当に後味が悪いのです。その後、何をするにも思い返されて、気分が塞いだ一日です。雀も家族があったろうに。わたしという生き物は、過去に引きずられていることを痛感いたします。いまという一瞬を生きるということの難しさは、過去に引きずられ、未来を憂いてしまうところから起きているのでしょう。

 お釈迦さまのお弟子のなかに、周利槃特(しゅりはんどく)(梵名チューダ・パンタカ)という名の尊者がいらっしゃいました。仏説阿弥陀経の冒頭にも出ておいでで、十六羅漢の一人と数えられていますが、生来愚鈍であったと言われるお方です。お釈迦さまのお弟子となられて4ヶ月を経ても一偈をも記憶できなかったために、見かねた実兄が祇園精舎から追い出し還俗させようとしたそうです。お釈迦さまはこれを知って彼に一本の箒を与え、東方に向かって、「塵を払わん、垢を除かん」と唱えながら、精舎を繰り返し掃除するよう教えました。来る日も来る日もひとり一心に掃除をする彼の姿はとても尊く、他のお弟子たちも手を合わせるようになり、無言で説法する者として十六羅漢に列せられたと伝えられます。周利槃特尊者はいまでいう知的障がい者ではないかと思うのですが、知的障がいを抱えた方に見られる光り輝く笑顔を、尊者もされていたのでしょう。掃除する姿に過去への後悔も未来への憂いもない、一心に集中して偈をとなえ掃除している姿を思い浮かべると、お釈迦さまが尊者を導かれた方法も素晴らしいのですが、尊者が阿羅漢に列せられたことは強いメッセージ性を持っています。

 仏説阿弥陀経の要所には「ただ念仏しなさい」と説かれていますので、「ただ……する」という尊者の姿と阿弥陀経の要所の説きぶりとはシンクロしており、いまという一瞬を生きる尊さをお釈迦さまはお示しくださっているのです。
 
 来生でのさとりを目指す生き方と別に、今生のいまこの一瞬のすくいをお釈迦さまが説かれるのは、いつやるの?いまでしょ!という言葉が流行る前のことですが、そこには過去に生きるのでも未来に生きるのでもなく、いまを生きることの尊さでもあるのです。

0 コメント

2013年

4月

24日

仏教は2階建ての家

アショーカ王碑
アショーカ王碑

『観無量寿経』に「仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く」とあり、阿弥陀如来の名前を称えることで長い時間の罪が消し去ることができると説かれています。お釈迦様が説かれた教えは、厳しい修行を重ねて悟りを目指すという、いわばそれだけの教えでした。その教えがインドを起点に中央アジア、中国を経て日本へ伝わる過程で、仏や菩薩の名前、お経の題名(経題、題目)を讃えることでも悟りを開くことができると説くようになりました。それは瞑想や戒律を説く出家者が、布施や祈願、礼拝を通じて在家者に信仰のすそ野を広げ、教義を中心とした教えが実践を中心とした教えへと広がり、仏教がインド固有の民族宗教から多民族宗教へと姿を変えていくうえで必要なことでした。言い換えれば、こうした変遷がなければ仏教は、ごく一部のインド人にしかわからない、瞑想中心で非常に専門的な教えのままでした。

 お釈迦様は紀元前383年に亡くなったといわれていますが、それから100年ほど後にインド亜大陸のほぼ全域を統一したアショーカ王は、武力によって征服した過去を悔いて仏教に帰依したと伝えられます。王は仏法による統治宣言の碑文をインド各地に建てました。碑文にはギリシア語とアラム語の二語併記で、信仰の勧め、殺生を慎むべきこと、父母長上に従うべきこと、そしてそれらの実践が将来の繁栄をもたらすことが説かれています。ギリシア語はアレキサンダー大王東征以来この地に残ったギリシア人に向けたもので、当時ギリシア、イラン、そしてインドの多民族が暮らす国でした。ギリシア人にとって偶像を持たない仏教は馴染みが薄かったようで、まず舎利塔の信仰により、次に現在のアフガニスタンへ伝わったとき騎馬民族クシャーン朝の庇護のもとで仏像が生まれました。シルクロード交易で栄えたガンダーラで財をなした商人や王侯が競うように舎利塔を建て、仏菩薩の像を彫って寺院に寄進し、経典が編まれました。

 仏教を「2階建ての家」に譬えるなら、専門的な教義と厳しい修行は1階、仏菩薩による現世と来世の庇護を求めて布施と祈願を勧めたのが2階、1階はインドで、二階はガンダーラで2世紀に増築されたものです。念仏を称えることで罪が消し去るという考え方はこの2階で民衆の求めから生まれたもので、後世に大きな影響を与えた反面、ために誤解も生じました。歎異抄第14章に指摘されているのは、経典に書かれた滅罪を拡大解釈することから生じたそうした誤解です。

 子どもの頃、生家の2階にわたしの自室がありましたので、友達が遊びに来るとすぐに2階に連れて遊んだ記憶があります。親がいる1階で遊ぶより、子どもは自分たちのスペースで遊びたい時があります。1階からお茶とおやつを持って、親が様子を見に来たことがありました。2階で何をやっているのか気になってのことです。わたしも親にならせていただいて初めて、そのときの親心に気付いたのですが、「親の心、子知らず」です。

 念仏は十悪五逆も八十億劫の罪も超えると経典にあるものの、それは仏教の2階。その心の本質は2階ではなく、1階にいる親心を伺って初めて見えてくるものです。歎異抄に見える親鸞聖人のお言葉に、「念仏申さずして終わるとも」必ず往生を遂げさせるという大きな親心が隠されていました。念仏を勧めているものの、念仏しなかったからといってすくわないと言っているのでもなく、ああありがたいと思ったその一瞬に、わたしたちはすくいの手の中にすでに入っている。

 2階に行くとき、必ず1階を通ります。2階の念仏にたどりついたとき、すでに1階の親心の手の中に入っているのです。親鸞聖人はそれを「正定聚」という言葉で表され、すくわれたいとか、ああありがたいと心に感じたその一瞬に、それは阿弥陀如来の親心の真っただ中にいることと同義であるといただかれました。それは念仏を称えることがすくいの条件にならない、それこそ仏教の真髄、お釈迦様が一生かけて説かれた教えです。

0 コメント

2013年

4月

03日

念仏は阿弥陀様へのありがとう

東日本大震災から二年を迎えた報道のなかで、とても印象に残ったテレビニュースのリポートがありました。津波で中心部が壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町に暮らす遠藤美恵子さんは、津波で娘を亡くし、この2年間、娘のことを思い出さない日はなかったといいます。「いまだに信じられないです。まさかわたしたちより先にこういうこと(死ぬこと)になるなんて、想像もしていなかったです。人生のなかで有り得ないことでしたから」。

 2年前の3月11日、町の職員だった娘の未希さんは町庁舎から最後まで避難を呼びかけました。「ただいま当町に大津波警報が発令されました。最大6メートルが予想されますので、急いで高台へ避難してください」。この呼びかけによって多くの命が救われましたが、未希さんは帰らぬ人になりました。娘が生まれたとき、未来への希望という意味を名前に込めたそうです。その娘に役場への就職を薦めたのは美恵子さんでした。そのことを思うと自責の念に駆られ、次第に庁舎へ行くこともできなくなっていました。

 あれから2年、踏み出す一歩を探し続けてきた美恵子さんは去年10月、自宅を整理をしていたときにあるものを見つけました。それは未希さんが未希さん自身に宛てて書いた手紙でした。「ぜんぜんこういうものがあるのも分からず、このまま整理しなければ見つけていなかったですね」。津波でにじんだその手紙は、二十歳になった誕生日に書かれたものでした。これから社会に出る自分に宛てた言葉が並んでいました。「あなたも今日から二十歳だよ。いつまでも輝く笑顔を失わず、素敵な女性へと成長してください。夢を持ち続け、前進し、前向きに」。明るい娘らしい言葉に胸を打たれていたとき、ふとページを開くと、思わぬ言葉が綴られていました。

 「人生って楽しいことばかりじゃないけれど、苦しいことやつらいことを乗り越えてほっとしたとき、いつも心に浮かぶのはこのひとことです。お母さん、わたしを産んでくれてありがとう」。

 娘の心は津波にも消えることなく、母に届きました。「未希はわたしから産まれて本当によかったんだなって思っているのが、初めて分かったんですね。自分を責めていたのが、これを読んで本当に少しですけど気持ちが軽くなりました」。いま美恵子さんはボランティアたちと一緒に再開したワカメの収穫作業に携わっています。「その日その日精一杯、季節が変わればそのたびに未希を思い出し、楽しいことがあれば今日は楽しかったんだよ、いつも悲しいことばかり報告するんではなくて、これからこんなことがあったよって報告できるようにね、そういった生き方をしていかないといけないんだなって感じています」。

 「お母さん、わたしを産んでくれてありがとう」。亡くなる前に直接言いたかったろうし、美恵子さんも未希さんの口から聞きたかったことでしょう。それを思うと可哀そうでなりません。しかしその感謝の言葉はまったく色褪せず、手紙に書かれたわずかこれだけの文字が美恵子さんを突き動かし、美恵子さんの寂しさと罪悪感に閉ざされていた心の扉を少しだけ開けました。感謝、謝罪、中傷、さまざまな言葉は、言葉を発したその人が死してもなお、はたらき続けます。美恵子さんは娘からの感謝の言葉を手紙で読み、「産まれてきてくれてありがとう」と涙ながらに何度も言ったことでしょう。親を憎む子、子を嫌う親と言えど、産んでくれてありがとうと産まれてきてくれてありがとうの対話を望まない人などいません。自らの存在を認めたい、認めてもらいたい。なぜなら、わたしたちは他者からの感謝の言葉によって生かされているからです。

 しかしそれは誕生に始まり、死ぬまでの一生の間のこと。わたしが生まれる前と死んだ後もなおはたらき続ける感謝の言葉、それは南無阿弥陀仏の念仏です。南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来の名前であり、はじまりがなく、終わりもないわたしの全存在を認めてくださるはたらきそのものを指すと同時に、そのはたらきへのわたしからの感謝の言葉です。ゆえに、念仏はわたしと阿弥陀如来との、時空を超えた感謝の対話だと言えるのです。

0 コメント

2013年

3月

17日

宿業とは何を言うのでしょう

中村久子さん
中村久子さん

歎異抄第13章の冒頭、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」という親鸞聖人のお言葉をもとに、わたしたちの罪は宿業から起こるという主題が提示されています。宿業とは難解な言葉です。歎異抄ではこの章と後序以外に例がなく、「宿世における業」を指しますが、そこにも説明が必要です。宿は「やどる」のほか「長い」「古い」「もとからの」という意味で、宿世は前世から現在に至る長い過去世となります。業とは「行為」を意味し、身(肉体)・口(言語)・意(意志)の三つに分けられます。宿世における因が現在の行為(果)となって報いると仏教では考え、「因果応報」(善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらすの意)と同じ場面で使われたことも数多くあるようです。宿業を言い換えた例としては「宿業とは本能である」(曽我量深師)、「個性である」(金子大栄師)という言葉もあります。しかし、ここまで書いてもまだ宿業は理解しづらい、つまりわたしたちに響かないのです。中世に一般的だった言葉と思想が、現代には通じにくくなっている側面があります。

 ところで、3歳の時に突発性脱疽から両手両足を失った中村久子さん(明治30年~昭和43年、写真)をご存じでしょうか。中村さんはお母さんがとても厳しいお人で、自分の口の中で針に糸を通すことが出来るよう仕込まれて自分で裁縫が出来るまでに育て上げられたそうです。中村さんの著書のなかに当時のお坊さんの言葉が出てきます。「手も足もないことは前世の業とあきらめて、この世を受け取って行かねばならない。その代わりに弥陀の本願を信じて念仏申すならば、次の世に極楽浄土に往生して仏になることが出来る」と。これに対して中村さんは、「然し手も足もないこれを前世の業と諦めなさいと言われても、素直にハイそうですかとあきらめ切れるものかどうか。先ずそうおっしゃるお方から御自身が手足を切って、体験を味わって頂きたいと私は思います。手も足もないこの悲しみはどれ位のものか私は六十年あまり過して来ましたが、決してあきらめることが出来ません。けれどもあきらめ切れない私の宿業の深さを如来のお光に照らして頂いて、どうにもならない自分を念仏によって見せて頂いておるのであります。南無阿弥陀仏」と、強い反発を表しておられます。忍従を強いて、極楽浄土に往生するという説き方で慰めるのが当時の説教でした。中村久子さんは続けます。「過去の仏教がただ頭から因縁だ宿業だ、あきらめろと一方的な観念で押しつけて、世の中の人々の間にだんだんこう言う観念が深く泌み込んで来たことが、悲しいかな、仏教を今日のような死んだも同然のものに追い込んだのだと言ったら言い過ぎでありましょうか」。

 誤解を恐れずに言えば、封建社会の身分制に安住した説教を続けてきたがために、もはや人の心に響かない説教になっている。これは何も宿業に限らない根深い問題ですが、まずここは宿業の意味を再考すべきと考えます。わたしなりに宿業を考えましたところ、「前に進むことも後ろへ下がることも難しいわたし」という表現になります。原発問題を取り巻く社会の趨勢や国際情勢を見るまでもなく、相対立する見解のもとで前に進むことも後ろへ下がることも難しい、それが現代世界の本当の姿です。東日本大震災から二年のなかで何度も耳にした「前に向かって進もう」のスローガンでは、何をもって前進とするのか、意味をわたしたちはうやむやにしたまま発しています。先人たちが宿業と言ったのは、そうした「人の力ではどうすることもできないもの」、「それを前にしたときに誰しも絶望せざるをえないもの」ではなかったかと思うのです。

 親鸞聖人は「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(歎異抄第13章)と、わたしの善悪は宿業のなかでいかようにも転じうると指摘されると同時に、善行悪行の加減で往生浄土していく考え方を誡められました。善行悪行の多寡で判断されすくわれていくのではない、宿業というわたし、わたしという宿業そのものに、本願ははたらくのだとおっしゃるのです。本願とはわたしをわたしひとりにさせないはたらきです。

 親鸞聖人の作られた歌に「煩悩菩提体無二と」(高僧和讃)、「煩悩菩提一味なり」(正像末和讃)とあり、煩悩そのものをさとりに転ずる本願力を讃えられています。本願に罪悪深重のわたしをおまかせする、それが本願ぼこりの真意だとおっしゃるのです。

0 コメント

2013年

2月

16日

なぜ名をとなえるのか

六字名号
六字名号

「南無阿弥陀仏」の南無とは梵語のnamasに由来する「まかせる」という言葉ですから、わたしたちが口に称えるお念仏は「誓願とすくいにおまかせします、受け入れます」という意味です。また阿弥陀如来の名前をとなえる意味もあります。浄土教の念仏、真言密教ではタントラ(真言)など、仏名をとなえるようになったのはしかし、大乗仏教以降になってからのようです。

 釈尊は清く正しく生きる道を目指して実践されました。釈尊没後、その教えはガンダーラで知られる中央アジアに伝播し、シルクロードを往来する東西文明に触れたことで、次第に「思索を深める」とか「清く正しく生きる」といった側面よりも、「人間を超越した存在に守られる安心」や「すくい」が強く求められるようになりました。つまり、「仏像などの偶像を崇拝することによる安心」と「仏名や経題をとなえることによるすくい」は、ギリシャ、中国の東西文明を知る中央アジアの商人が強く望んだことが背景にあったと考えられています。
仏教だけでなくキリスト教、イスラム教でも神の名をとなえ、讃えます。尊い名をとなえることは自らを浄化すると信じられてきた古来より、わたしたち人類は安心とすくいを求めて名前をとなえます。名前をとなえることは人類が抱える不安を打ち消そうとする、根源的な営みです。

 釈尊の残した教えが中央アジアに伝播したことで、他宗教との混淆が進みました。出家者は欲望を断ち切った静かな境地を求めることに変わりないものの、在家者は現世における利益と安穏を、そして少しでも善い来世の保証を望みました。在家者は思索するよりも、瞑想するよりも、戒律を守るよりも、端的な結果を求めるようになったのです。次第に在家者が守るべき六つのことがらが語られるようになりました。それを六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。

   布施(ふせ)…分け与えること
   持戒(じかい)…清く正しく生きること
   忍辱(にんにく)…耐え忍ぶこと
   精進(しょうじん)…努め励むこと
   禅定(ぜんじょう)…静かに考えること
   智慧(ちえ)…ありのままに見ること

 どれだけ帰依したか、どれだけ献身したかが具体的に表れる布施の量や、礼拝の回数が果報の多少を決めると在家者は考えました。ガンダーラでは豊かな経済力を背景に、商人が競って仏塔を建て、仏像を彫りました。仏の超越的な力を表現したバーミヤンの石仏は、商人の商業的で即物的な発想と無縁ではありません。大乗以前に考えられなかった仏名をとなえるということも、わかりやすさを求める土壌のなかで育まれたと考えられています。仏教が他宗教に触れ、多くの民族に受け入れられていく過程で、わかりやすさが求められたと同時に、後世の人間の考えが入りやすくなったことも確かです。


 親鸞聖人は「易行―浄土門」「難行―聖道門」という対比で念仏往生が究極の易行であると説明されているにもかかわらず、「易行だけれども経を何回も読まねば往生できない」「学問も必要だ」などとする異解が生まれやすいのも、仏教がたどった歴史と重なります。「阿弥陀如来の名前をとなえる以外に、何もいらない」という親鸞聖人のお考えは、名号(みょうごう)本尊(上写真、模造)に強く表れています。生涯をかけて名号本尊だけに掌(てのひら)を合わされた親鸞聖人には、自らを南無阿弥陀仏と名乗り、南無阿弥陀仏のなかに願いを込め、わたしたちに名をとなえることだけを薦められた阿弥陀如来でした。その阿弥陀如来を礼拝するとき名号本尊に合掌する、それは南無阿弥陀仏そのままの「名前をいただくこと」を意味します。仏教の長い長い歴史を経て、時空を超えて、名前に込められたすくいといただくことです。名前をとなえるだけですくわれるのは下等な教えだとするのは,当事者でない方の意見でしょう。生死の苦海に漂う当事者として、親鸞聖人は南無阿弥陀仏の名前をとなえる以外、何も必要ないし、役立たないことを強く訴えられたのです。

0 コメント

2013年

1月

04日

お釈迦さまの道、それは「開かれたこころ」

 お釈迦さまが示された道、それはこころを開く教えです。私たちは自分の姿を反省するときに、こころが閉ざされていたり偏見に満ちていたりすることが往々にしてありますが、何かの縁でそのことに気付き、ハッと目を覚まされることがあります。気付き、目覚め、それを仏典では「開発」という言葉で表わします。開いて発する。古くはインドで使われ漢訳仏典に出てくる言葉です。人間が内に持っている尊いものを、慈悲のこころが伸ばすことと理解できるでしょう。本願寺第八代蓮如上人は『御文章』のなかで「信心開発」「宿善開発」という形で使われました。お念仏が「手段」の私の人生が、お念仏「そのもの」の人生に転じられることです。この言葉を弘法大師もお使いになり、日蓮上人においては『開目抄』というお書物の中で、目を開く、こころを開く、開かれたこころを大切する、それがお釈迦さまの道と説いています。
 しかしいくら素晴らしい教えであっても、書物を読んだり、人から教えを受けても、それが大して自分に響かないことがあります。その逆にそれが何かの縁に、とくに逆境での経験を積んだ後に、「あ、まさにこれだったな」と思って気付かされることがあります。それは抽象的な知識で開かれたのではなく、自分の経験に照らしてハッと気づかされたわけですから、実践的な認識と言えます。私たちの先人はそれを「お育て」と言ったり、「育てられている」という言い方をして、そのようにして気付かされることを大切にしていました。目覚めや気付きが自らの仕事でなく、慈悲のこころが開いてくださることを、慈父と悲母が子どもを育むにたとえた表現です。
 私事ですが年末に所要があって山梨県の河口湖畔へ行きました折、運転して通りかかった小学校で標語を目にしました。「いいちえ いいあせ いいこころ」。良い知恵と汗のもとに心が結ばれるという教えは、修行のイメージと重なり、仏教的だと感じました。修行はお釈迦さまの時代、身体を痛めつけ苦しめるものでなく、自らの修養を指しました。お釈迦さまの古い教えを伝える聖典のなかに、農夫とお釈迦さまの対話が出て参ります。
 私にとっては、信仰が種子である。
 修行が雨である。
 智慧がわが軛と鋤とである。
 慚が鋤棒である。 
 努力がわが軛をかけた牛であり、
 安穏の境地に運んでくれる。
 この耕作はこのようになされ、
 甘露の果実をもたらす。
 この耕作を行ったならば、
 あらゆる苦悩から解き放たれる。
  (『スッタニパータ』)
 「お釈迦さまは何もしていないじゃないですか。私は朝から晩まで田を耕して苦労している。あなたは一日何をしているのですか?」「いや、私は鋤鍬を持って耕すことはしないけれども、自分の心を耕しているんだ。これはもう真剣な努力だ。それによって世の人々に感化を及ぼすことになる」という趣旨をおっしゃっています。一行目にある信仰とは特定の宗教を信じるという狭いものでなく、宇宙の真理を受け入れることです。真理は自ら求めてつかむのでなく、また熱狂的に信じるものでもなく、静かに穏やかに、ただそっと受け入れるものです。私たちは真理に対してこころを開く、それが修行になります。さらに慚愧という言葉で知られる慚、つまり自分に対する恥じらいが伴わなければならないと仏教の教義学では教えます。孔子さまのお言葉に「われ日に三度省みる」(『論語』)とありますように、善行とは「人の為になっているから善いことである」というお仕着せでなく、立場が変われば善行も悪行になりうるという自主点検が必要です。
 そして真理と修行のもとに訪れる、苦悩から解き放たれた状態を解脱や悟りと言いますが、面白いことにインドの単語では複数形で使われています。解脱を得る、悟りを開くことは人生に一度しかないとするのではなく、複数回ある。つまり人生のうちで瞬間瞬間に何度となく訪れるものであるという考え方がインドでされていたのです。「一里行けば一里の悟り、二里行けば二里の悟り」と聞いたことがあります。一度悟りを開いたらもう後はその境地から退くことはない、何してもいいんだということでなく、むしろ一日一日本当の道を実践する、瞬間瞬間にこれでいいのかしらと反省しながら、道を求めていく、そこに本当の宗教の生命があるのでしょう。

0 コメント

2012年

12月

26日

本願を宗とし、名号を体とす

 歎異抄第十一章は歎異抄第一章「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」に対応しているといわれ、誓願が不思議だからたすかるのか、名号が不思議だからたすかるのを分ける「誓名別信(せいみょうべつしん)の異義を正す章となっています。

 

 誓名別信とは「誓願と名号とを別と信ずる」というもので、歎異抄第十八章まで八つならぶ異義のひとつです。誓願とは菩薩が仏道修行するときに立てる誓いと願いで、それが叶わないかぎり悟りを開かないとするもので、総願と別願に分けられます。総願とはすべての菩薩に共通するもので、


衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)あらゆる生き物をすべて救済するという誓願)

煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)煩悩は無量だが、すべて断つという誓願)

法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち)法門は無尽だが、すべて知るという誓願)

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願)


四弘誓願(しぐぜいがん)を指し、別願とは諸菩薩それぞれの願いで阿弥陀如来は48願、薬師如来は12願。阿弥陀如来(法蔵菩薩)の誓願は『無量寿経』に説かれ、なかでも18番目の誓願「設我得佛(せつがとくぶつ) 十方衆生(じっぽうしゅじょう) 至心信樂(ししんしんぎょう) 欲生我國(よくしょうがこく) 乃至十念(ないしじゅうねん) 若不生者(にゃくふしょうじゃ) 不取正覺(ふしゅしょうがく) 唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)」が最も知られこれを48ある誓願のうちの根本願、本願と言います。また、名号とは一般に如来と菩薩の名前ですが、ここではとくに阿弥陀如来の名前を指します。

 

浄土教ではあらゆる衆生が浄土に生まれることを第一義としますが、仏が衆生をすくうという行為は、それ以前の小乗仏教ではほとんど重視されていません。大乗仏教の経典が編み出されるなかで如来と菩薩が数多く生まれ、「すくい」が前面に出た仏教、それが大乗仏教であり浄土教です。すくうために菩薩は別願を立て、修行します。別願は現代風に言えばマニフェストで、それぞれの菩薩が目指すすくいの特徴ですが、その特徴はすでに如来と成仏したその名前に表れています。

 

如来とは「真に随ってたり現れた者」で、永遠の真理、涅槃、滅度、等正覚(三藐三菩提)、覚者、世尊、仏などとも言い換えられます。薬師如来、大日如来など多くあるなかでとくに阿弥陀如来は「永遠に、そして無限にわたしを照らす」という意味の名前ですから、その名前に誓願とすくいが込められています。「永遠に、そして無限にわたしを照らす」という如来の名前をわたしたちが口に称えることは、その誓願とすくいを受け入れ、その如来のはたらきにまかせていくということと同義です。

 

 わたしたちが口に称えるお念仏、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来の名前です。南無とは梵語のnamasに由来する「まかせる」という言葉ですから、南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来の誓願とすくいを受け入れますという意味です。「それがどうして阿弥陀如来の名前になるの?」。


如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」(親鸞聖人『教行信証』)

(阿弥陀如来の本願は宗、つまりわたしたちが生きて死んでいくうえに欠かせない精神的支柱であり、阿弥陀如来の名前は体、その支柱がわたしに実体験されていくものである)


 念仏で助かるのか、それとも本願で助かるのかという議論はかつてからありました。「お前の称えている念仏は他力の念仏か、自力の念仏か」「自力の念仏では浄土へ参ることができんぞ」と。しかしわたしなど、念仏を称えることによって自力の心から離れられないことを知らせていただく毎日です。自力を捨てよ、本願に帰せよと教えられるのですが、どこまで行っても人間は自力のはからいというものが取れません。取れないということをなぜ知らせていただくかと言いますと、念仏を称えることにおいて知らせていただくのです。実体験していくところにわたしたちに寄り添う如来のすくいが感じられる、それこそ念仏の本当の姿です。


 河口湖のそばにある小学校でこのような標語が掲げられていました。「いいちえ、いいあせ、いいこころ」。良き智慧と良き修行の勤まるところに、良きすくいが宿るとは大乗仏教の教えそのものだなあとひとり感じ入ったのですが、阿弥陀如来に南無するとは、念仏を称えることが本願を受け入れることと同義だと知らせていただく、この標語と同じこころです。本願を離れた念仏はなく、念仏を離れた本願はありません。念仏は名号であり、名号が念仏になっていく世界、それが本章の味わいなのでしょう。

0 コメント

2012年

12月

12日

はからいを捨てて

仏教の成立、それは釈尊が菩提樹の下で悟りを開き、その悟りを人々に伝えたことに始まります。紀元前383年に釈尊没後、釈尊が伝えた教えは弟子たちの手で集められましたが、当時文字はあったものの記憶にたよっていたため、記憶第一の阿難(アーナンダ)が中心となって弟子たちの教えを確認し合いました。それが次第に整理され、形式が整えられ、たて糸を意味する「スートラ」(経)と呼ばれるようになりました。「たて糸」と呼ばれた背景には、教えを簡単な形に圧縮し、記憶しやすいものにする意図があったといわれています。


 「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である」。(中村元『ブッダ真理のことば』岩波文庫)


 釈尊は上記のように倫理的聖句を数多く残しています。現実の迷いと苦悩を断ち切るために倫理的行為を薦め、殺さないで愛し合うことを、盗まないで施すことを、妄語を語ることなく真実を語ることを教えようとしました。これらは「アーガマ」(阿含)とも呼ばれています。

 釈尊の言葉を記憶し、実践していくうえでその解釈は次第に多岐に分かれるようになり、解釈をめぐって僧の集団である僧伽(さんが)分裂経て、アビダルマ仏教の時代が到来します。アビダルマとは<法の研究>を意味し、釈尊の教説を同種類ごとに分類整理したり、体系的に配列したり整理することで、語義の解釈、注釈、さらに法の理解に基づく自己の学説の樹立へと発展していく、いわば仏教にとって「基礎科学の時代」にあたります。このうち「説一切有部(せついっさいうぶ)」では現象の変化、世界の成立、善悪の行為の成立と結果、業・心の変化と煩悩、煩悩の断尽、悟りの段階、悟りの内容などについて、細かな理論体系を作り上げています。

 大乗仏教は、大乗経典を仏説として受け入れるという特色を共有する仏教といえます。大乗経典は紀元1世紀から7世紀にかけて成立し、仏滅後400年以上経て成立したこれらの経典を、伝統部派(小乗仏教とも言われます)は異端と見ました。それは仏説ではない、というのです。これに対し大乗仏教の側からは、伝統部派が用いるアーガマも「弟子の記憶」に依るもので、長い歴史のなかで修正、編纂が進んだ経緯からも仏説とは言えないではないかという反論が出されました。

 一方で、大乗経典は紀元1世紀から7世紀にかけて大量に生み出されたものの、大乗仏教にまつわる出土品の碑文・銘文等の考古学資料が皆無に近いことから、最新の研究では「大乗経典は存在するが、大乗教団は500年ほどの間、存在しなかった」という見方が広がっています。つまり、大乗仏教初期から中期にかけての大乗経典を書いたのは伝統部派に属する経師たちで、伝統部派に属しながら新たに経典を生み出す「経典制作運動」だったのではないかと考えられているのです。

 専門家のなかには、大乗経典が生み出された背景に、在家信者への浸透を模索する動きが伝統部派内にあったのではないかとする見方もあります。仏教が大衆に広く受け入れられていくために、そしてアビダルマ仏教の精緻な基礎科学の反動から、大乗経典が生み出され、仏教は批判をしながら影響を受け、階層的に作り上げられてきました。

 法然聖人のお示しくださった浄土の教えは大乗経典中期の「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」に基づき、念仏を称えて真如(さとり)を目指す教えです。さとりの世界を真如や波羅蜜と言いますが、言語と認識を超えた世界です。


無明(むみょう)(ぎょう)(しき)名色(みょうしき)六処(ろくしょ)(そく)(じゅ)(あい)(しゅ)(う)(しょう)老死(ろうし) (十二因縁)


釈尊は人間苦の原因を十二に分類しています。わたしたちが老いて死ぬのは生まれたからで、行頭から二番目、行とは修行という意味ではなく、わたしたちの周りにある「作り上げること」として用いられます。義(はからい)と同義です。つまり、「作り上げること」は「無知」から生じているという説明です。無知では真如へは至ることができない、作り上げるのではなく阿弥陀如来から廻向された念仏によってさとりに至ると法然聖人がお示しになった背景には、体験を通じた信仰だけでなく、長い仏教伝統の論理からも伺えるのです。

0 コメント

2012年

10月

23日

他力の悲願はかくのごとし

都内にて
都内にて

歎異抄 第九章
一 念仏まふしさふらへども、踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)のこゝろおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこゝろにてありけり。よくく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよく往生は一定(いちじょう)おもひたまふなり。よろこぶべきこゝろをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに、仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)の凡夫(ぼんぶ)とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよくたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまひりたきこゝろのなくて、いさゝか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこゝろぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいまゝで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだむまれざる安養(あんにょう)浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくく煩悩の興盛(こうじょう)にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土(ど)へはまひるべきなり。いそぎまひりたきこゝろなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそいよく大悲大願はたのもしく、往生は 決定(けつじょう)と存じさふらへ。踊躍歓喜のこゝろもあり、いそぎ浄土へもまひりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんとあしくさふらひなましと[云々]。




踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)とは経典に出てくる言葉で、<踊躍>は喜びが全身の動作に表れた姿、<歓喜>が心身に満たされる喜びを指します。

「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん」(『無量寿経』第44願)。

信心を得た菩薩は歓喜し、踊躍し、それが永遠に続くと経典に示されるものの、一時感じた信仰の喜びが永続しない、新鮮さが薄れ信仰の倦怠期にある自分自身に、唯円は悩みを深めていました。また、念仏によって西方浄土への往生は確かと信じているものの、急いで往生したいと思わないのは本物の信仰と言えないのではないかという劣等感にも苦しんでいました。

この二つの不安に対し、親鸞聖人は「わたしも同じです」と、唯円とまったく同じ視点で見ています。相手を包み込むような温かなお人柄が偲ばれます。親鸞聖人も唯円も、信の一念によって生じる歓喜踊躍の心を経験なさった人です。信の一念とは阿弥陀如来の智慧の光に包まれる信体験のことで、永遠のなかの一瞬の出来事です。その一瞬が人知のなかでは永続しません。人間が幸せを味わうのは一瞬にすぎず、時間と共に忘れてしまう。時間が経てばよろこべなくなる、あるいは最初からよろこぶことができないのは信心が足りないからではなく、煩悩をもった人間には歓喜踊躍の感動が永続することなど始めから不可能だと阿弥陀如来にはわかっていたからこそ、人間の手を離れたところで阿弥陀如来は願い(他力)を完成させる以外にすくいの方法がなかったのです。「よくよく案じてみれば」、人間は願うと願わざるとにかかわらず浄土に包み込まれるよう生きています。それを親鸞聖人は自然法爾(じねんほうに)という言葉で表されました。

久遠劫という時間のはるか昔から、私たちは流転輪廻を繰り返してきました。「自身は現にこれ罪悪(ざいあく)生死(しょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もっ)しつねに流転して、出離(しゅっり)の縁あることなしと信ず」(善導大師『観経四帖疏』)と言われるように、せいぜい数十年前に生を受けたのは現在の姿形をしたわたしに過ぎず、本質的な意味のわたしという存在はこれまで数えきれないほどの流転を繰り返し、今に至っています。急いでまでお浄土へ行きたくないのは、久遠劫という時間にわたって本質的なわたしが住み慣れてきた娑婆への執着がいかに強いかということです。執着とは煩悩です。煩悩ゆえによろこぶべきところをよろこばず、ちょっとでも死にそうになれば不安を覚える。

しかし、煩悩があるゆえにわたしの浄土往生は間違いないと、なぜそこまで言えるのでしょう。煩悩は智慧の光に浮き彫りに照らし出されています。それは事実です。その智恵の光の根源は、「仏かねてしろしめして」とある、煩悩具足の凡夫をすくうために法蔵菩薩がありとあらゆる状況と方策を検討して、阿弥陀如来となって誓願を成就されたところが根源なのです。

一体、わたしたちが往生する証拠はどこかといえば、その証拠は移ろいやすいわたしたちの心の中にではなく、南無阿弥陀仏のお姿そのものにあります。法蔵菩薩がすでに成仏していらっしゃる、誓願がすでに成就しているということが、わたしたちの往生の何よりも頼もしい証拠なのです。

第9章の味わいは「他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけり」、この一文から始まり、この一文に極まっているといえます。他力といい、悲願といい、誓願ともいわれるはたらきはわたしを目当てに、わたしの煩悩を目当てにはたらいているということ、そして煩悩が真っ盛りということは他力の悲願がはたらく真っ盛りであると同義であります。その他力のはたらきの真ん中に、煩悩の真ん中にわたしがいる、それが親鸞聖人の味わわれた「よくよく案じみれば」の世界観だったのだと思うのです。

0 コメント

2012年

10月

11日

青木新門講演会講演録「いのちのバトンタッチ~映画『おくりびと』に寄せて」

10月6日青木新門さんをお招きして、第1回「いのちの講演会」を開きました。以下は講演要旨です。

-------------------------------------------------

  富山県の黒部平野で生まれ、両親に連れられ満州(現在の中国東北地方)へ渡り、ほどなく終戦を迎えたとき私は8歳でした。父は戦死、母が難民収容所で発疹チフスで隔離されてすぐ、0歳の弟と4歳の妹が死にました。小さな遺体を満州の荒野に捨てた体験は、私のなかに深く刻みこまれています。昭和21年暮れに母とふたりで引き揚げてきて、富山の祖父母の元へ身を寄せたものの、夫を亡くしていた母はすぐ家を出、私は祖父母に育てられました。早稲田大学へ入学、安保の渦のなかでほとんど勉強しないまま中退し、富山へ戻って飲食店を営みながら詩や小説を書き、文学を志すようになりました。ほどなく店は倒産し、子どものミルクも買えない状態のなか、新聞の求人欄に見つけた葬儀社の仕事を、短期のつもりで始めました。
 納棺の仕事を始めてしばらくした頃、疎遠だった叔父がやってきて「死体を扱う仕事をしているのか」と問いただし、「すぐ辞めろ。都会ならともかく、この狭い富山でやられては親族は恥ずかしくて街を歩けない」と怒鳴りました。「どうしても辞めないなら、縁を切る」と。親族の恥とまで叔父に言われて初めて、私は世間体が気になりだしました。周囲から白い目で見られている感覚から、誰とも会わなくなり、隠れるようにひっそり生きていました。
 その後ずいぶん経って叔父は末期癌となり、「意識不明でここ両日が峠。あなたはずいぶんお世話になったのだから顔を出して」と母が泣き声で電話してきました。顔も見たくなかったのですが、意識不明ならば行ってやろうかと思いました。父の代わりとなって私を育ててくれた恩など、微塵も感じていませんでした。「親族の恥」と罵られたことだけが、深い恨みとなっていたのです。
 身構えて病室へ入ると、人工呼吸器をつけた叔父は意識が戻っていました。傍らにいた叔母が私の来訪を叔父の耳元で伝えると、震える手を私に伸ばします。その手を握りながら、私は叔母が用意してくれた椅子に腰かけました。叔父は何か言おうとしますが、ほとんど声になりません。その顔は私を罵倒した時と全く違う穏やかな顔で、いつの間にか目尻から涙がこぼれ落ちていました。叔父の手が少し強く握ったように感じられたとき、「ありがとう」と私にもはっきり聞こえました。その瞬間私の目からも涙があふれ、椅子から転げ落ちるようにして、「叔父さん、すみません」と土下座していました。叔父は何度も「ありがとう」と言いました。その顔は清らかで安らかでした。私の心のなかの憎しみはすっかり消え、涙がとめどなく流れ落ちました。私が病室を出てまもなく、叔父は息を引き取ったそうです。
 九州地方の門徒総代さんの一周忌にいただいた冊子のことをお話しします。その門徒総代さんが亡くなるとき、子や孫まで17人もの親族親戚が取り囲むように看取ったそうで、今日が峠か明日が峠かと孫たちは3日間学校を休んで全員で見守り、後で全員が感想文を書いて一冊にまとめたのだそうです。なかでも14歳のお孫さんの文が素晴らしい。「ぼくはおじいちゃんからいろいろな事を教えてもらいました。特に大切なことを教えてもらったのは亡くなる前の3日間でした。今までテレビなどで人が死ぬと、周りの人が泣いているのを見て、何でそこまで悲しいのだろうかと思っていました。しかし、いざ自分の身内が亡くなろうとしている所に、そばにいて、ぼくはとてもさびしく、悲しく、つらくて涙が止まりませんでした。その時、おじいちゃんはぼくにほんとうの人の命の重さ、尊さを教えて下さったような気がしました。(中略)最後に、どうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでもぼくを見守ってくれることを約束して下さっているような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました」。臨終の場面に居ること、つまり死を五感で認識することが大切なのです。死後数日経ってから斎場で棺の蓋を開けて遺体と対面しても、恐らくその遺体は何も語らないでしょう。遺体を見るだけでは、この文のように「笑顔」という言葉は出てきません。親鸞聖人がたびたび引用されたお言葉があります。「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ」(道綽禅師『安楽集』)。浄土真宗は報恩感謝の思想で貫かれております。言いかえるとそれは「ありがとう」になるのだと思います。(談)

0 コメント

2012年

9月

20日

もののいのち

ものにはいのちがあります。生き物だけではありません。あらゆる存在すべてにです。

わたしが小学生の頃、クラスのなかにやんちゃな男の子 が遊んでいるうち、長い定規で友人の頭を軽く叩いたことがありました。「そんなことをすると、定規が泣いているよ」と先生は言いました。本当に定規は泣く のか、そんなこと嘘だって思いましたが、今になって思い起こしてみるとあれは「定規にもいのちがある」ということを教えていたんだと思えます。定規が定規 以外の目的で使われる、それは定規も望んでいません。定規にもいのちがあるのです。

また同じころ、わたしの靴下に穴が開くと、洗濯した翌 日にはその穴がきちんと縫われてタンスにしまわれていたことが度々ありました。いずれも「もったいないから。まだ履けるから」と祖母が縫ってくれていたも のでした。わたしの生まれそだった富山の言葉でそうやって縫うことを「つんき」といいます。つんきされた靴下は格好が悪く感じられ、恥ずかしいからイヤだ と何度も言ったのですが祖母はその都度、「もったいないから。まだ履けるから」と言います。今にして思えば祖母は、靴下にもいのちがあると教えていたので しょう。

わたしたちの周りに、様々ないのちの姿があります。それらはすべて輝いています。わたしたちの目にはそう見えませんが、いのちは 輝いています。先日知人の奥さんの出産祝いで産科へお見舞いに行き、新生児室に並ぶ何人もの赤ちゃんの寝姿を見る機会がありました。生まれたばかりの赤 ちゃんは輝いていました。そのことは皆さんもきっと同じ感動を覚えられるでしょう。しかし、赤ちゃんばかりでなく、あらゆるいのちは輝いている「はず」で す。かくいうわたしにもそう見えません。「ものにはいのちがある」。こう教えてくれた方の言葉の裏には、「わたしにもお前にも、もののいのちは見えない が、いのちは本来輝いているものなんだ。だからいのちは尊いんだよ」と伝えたかったのではないかしら。

あの頃わたし教えられたように、い ま子どもたちを諭すことが増えた年齢にわたしも達しましたが、子どもたちがもののいのちを粗末にするような場面に遭遇したとき、何を言ってあげられるだろ うか。わたし自身、あらゆるいのちを大切にして生きているだろうか。自分自身への問いがまだ続いています。

0 コメント

2012年

7月

21日

頑張るあなたへ

釈尊一代がお勧めくださった仏法は、万人に開かれた悟りの実践に外なりません。万人に開かれたということは、身分や性差を超えて、誰にも開かれたというこ とで、それは釈尊在世のインド社会が厳しい身分社会であり、女性蔑視の社会であったことを考えると、画期的な実践方法であったことが想像できます。そして万人に開かれたという教えだからこそ、2500年もの歴史の間に、幅広い解釈が生まれたのだとも言えます。日本の仏教と隣国韓国と中国、ブータン、東南アジアや南アジア諸国、そしてインドに伝わる仏教は、一目には別の宗教かと思えるほどの違いを互いに持っています。

その違いは実践です。合掌する姿は万国共通ですが、お経はもちろん、坐るスタイルも様々、何をもって悟りを目指すかの方法論はもっとも大きな違いでしょう。悟りの実践とは、何のために生きているのかの答えを探す道程とも言えます。わたしが尊敬している大峯顕先生(大阪大学名誉教授)は何のために生きているのかと問われて、「死ぬことが心配ないようになるために、生きているのです」とおっしゃいました。親鸞聖人は「わたしに弟子はひとりもおりません」とおっしゃって、お弟子さんに自らが教えをほどこしたとは考えておられません。各自が阿弥陀如来から教えをいただくんだというお考えです。

つくべき縁あればともなひ、
はなるべき縁あればはなるゝことのある
             (『歎異抄』第六章)

師弟の間といえども、前世からの因縁によって定まっている運命、つくべき運命があれば弟子は師につき、離れるべき運命にあれば弟子は師から離れるものであ ります。広い大宇宙にたったひとりでわたしは生を受けて、たったひとりで死んでいかねばなりません。何のために生きているのかという根源的な問いを持たね ば、そしてその答えを見つけるまでは、ただ不安な一生です。

釈尊がお勧めくださった仏法は、万人に開かれた悟りの実践であったはずです。万人に共通のすくいが、「わたしの」すくいとならなければ、仏法を聞いて実践 する妙味がまったく薄れてしまいます。落語家の立川談志さんがわたしは個人的に好きでしたが、亡くなってから映像で見てもその素晴らしさは伝わってくるものの、生前の迫力にはかないません。映像や音声、書物で伝わる魅力というのは、生の魅力の100分の一にも満たないと思うからです。釈尊と同時代を生きることのできないわたしたちは、釈尊の教えを書物でしか味わうことができません。そこで感じられた魅力を百倍して初めて、釈尊一代の魅力にようやく迫れるのではないかと最近思えるのです。親鸞聖人のお言葉もそうです。書物に残されたお言葉を何十倍も何百倍もしてはじめて、「わたしの」すくいになってくると思います。「万人に開かれた」で済ましてしまわず、「わたしの」すくいにならなければ、画餅のままで終わります。頑張るあなたへ。実践していきましょう。味わっていきましょう。

0 コメント

2012年

7月

11日

個のいのちと、個を超えたいのちについて考える

 今年6月、富山大病院に低酸素脳症で入院していた男児に対し、国内で初めて6歳未満の子どもへの脳死判定が行われました。脳死判定を受けて臓器提供という重い決断をされた男児のご両親が発表されたコメントをニュースで聞き、わたしも感銘を受けました。そして、ふと宮沢賢治の詩の冒頭の一節が思い返されました。
 けふのうちに
 とほくへいってしまふ
 わたくしのいもうとよ
 みぞれがふって
  おもてはへんにあかるいのだ
  (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
          (『永訣の朝』)
 賢治26歳、妹トシ24歳での別れを詠んだものです。男児のご両親のコメントには「息子は私たちのもとから遠くへ旅立ちました」とありました。宮沢賢治も「とほくへいってしまふ」と記していますが、ただ遠くへ行くのではないと語る点も賢治の詩と共通しています。「大変悲しいことではありましたが大きい希望を残してくれました。息子が誰かの体の一部となって長く生きてくれるのではないか。息子を誇りに思っています」。これは臓器移植を受ける方のいのちが長らえられるという意味だけでなく、個を超えたもっともっと大きないのちの流れを想起させ、そうした点も賢治の詩と共通しています。
 わたしたちの日々は、個々のいのちの縁のなかにあります。「おかげさま」と言われるその縁とは別に、涅槃経に「山川草木悉有仏性」あらゆるものに仏性が宿るとされ、「山鳥のほろほろと鳴く声きけば 父かとぞおもふ母かとぞおもふ」と行基菩薩が言ったように、古来わたしたちの先祖はあらゆるいのちとの一体感のなかで生活を営んできました。眼前に男児の姿はなくとも、男児のご両親にとっては「生き続けること」、それが唯一のすくいであったように、宮沢賢治にとっては妹トシが兜率天に生まれてくれることが唯一のすくいでした。兜率天とは弥勒如来の浄土です。浄土とはすなわち、個を超えたいのちです。
 一方で宮沢賢治は、ひとりの人間への個人的な執着を、「修羅意識」として一貫して否定しました。修羅とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天とされる六道のひとつで、闘争的な仏教の守護神、阿修羅がその主とされます。
 いかりのにがさまた青さ
 四月の気層のひかりの底を
 唾し はぎしりゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ
           (『春と修羅』)
 わたし自身は修羅であります。しかし修羅を修羅のままで置かないはたらきがある、親鸞聖人はそのはたらきを本願力廻向、他力回向とおっしゃいましたが、宮沢賢治も個のいのちへの執着を離れ、個を超えたいのちへの帰依を自らの詩的言語で語り続けた方でした。
 翻って、わたしたちの周りにあふれているのは、個のいのちへの執着をあおる情報ばかりです。執着は世の常、人の常ですが、修羅を修羅のままで終わらせかねないものです。墓地へ参りますと「◯◯家之墓」と書かれた墓碑が多くなり、浄土真宗独特の「倶会一処」「南無阿弥陀仏」と書かれた墓碑は見かけなくなりました。個を超えたいのちが墓碑から消え、個のいのちばかりに目が向いているように思えます。
 道元禅師が「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり」と言い、親鸞聖人が「光触かぶるものはみな 有無を離るとのべたまふ」と指し示された道は、死を悲しみで終わらせない世界、涅槃によって無限のいのちに還る世界、慈悲のはたらきとなって生き続ける世界です。死を悲しみとさせないのは、個の対極にある永遠性と普遍性への帰依があるからです。
 「老いを楽しく」「生涯現役」といった言葉で老いは華々しく彩られてはいますが、孤独死が年間2万人、自殺者は年間3万人を超す社会は異常です。働いているときには働きがいを、そして定年後は生きがいを真面目に探してきたわたしたちは、なぜ生きるのか、なぜ死んではいけないのか、その根本への答えを見出せずにいるような気がしてなりません。
 脳死判定を受けて臓器提供をされたご両親は、深い悲しみの中で誠に尊い決断をされました。心から敬意を表しますとともに、個を超えたいのちに深々と頭を下げられたであろうそのお姿を思うと、人間中心、自分中心でしか見ることのできないわたしは、言葉にならない思いで胸がいっぱいになるのです。(住職)

0 コメント

2012年

5月

17日

『あんぱんまん』に見る阿弥陀如来のすくい

2歳の娘が見るものですから、テレビで『それいけ!アンパンマン』を一緒に見ることがあります。何気なく日常テレビを見ていただけのアンパンマンでした が、ふと最近手に取ったのは、原作者やなせたかしさんのこれはおそらく最初期の絵本『あんぱんまん』(フレーベル館、1976年第一刷)。

 

この絵本『あんぱんまん』(現在はアンパンマンとカタカナですが、この絵本では平仮名です)を読み、現在のアンパンマンと姿が少し異なり手は五本指、アン パンマン生みの親であるジャムおじさんにはまだ名前がなかったりするのですが、何より驚いたのはその「教え」の深さです。

続きを読む 0 コメント

2012年

4月

17日

平川彰先生のお言葉から

平川彰先生は東京大学名誉教授をおつとめになった稀代の仏教学者で、2002年にお亡くなりになるまで実に多くの著書を残されました。その中の『新・仏典解題事典』(共著 春秋社 1966年、絶版)序章を読んでおりましたら、次のようなお言葉がありました。

「仏教が民衆化したことは、それだけ安定した宗教になったのであるが、同時に活気を失う結果となった。国民感情に適合した仏教ができ上がってしまえば、そ のあとでさらに独創的な教理を打ち出すことは至難である。したがって仏教界に天才の出現を困難にし、ひいては仏教界に人材の流入を妨げる結果となった。教 理が型にはまってから長い年月がたてば、凡庸な人でも真似でもって他人に法を説くことができるようになる。同時に少しぐらい才能があっても、固定した教学 を打破して、新しい説を打出すことは困難になる。そのために宗以後には、概していえば、仏教界に優秀な人材が少なく、多くの僧尼は生活のために寺に入り、 したがって彼らは高遠な理想を解せず、高い教養や教育をおさめる積極さがなく、このことが、僧界が一般社会から軽視される風潮を作ったことは否めない」 (同書 p.34)

インドから中国へ伝来した仏教が、隨唐時代に飛躍的に発展し民衆へ浸透したのと対照的に、宗代に移ってからは守勢の仏教に変質した点を指摘していらっしゃ るのですが、これはまさに日本に伝来してからの仏教の姿を表してもいます。葬式仏教と揶揄され、伝道者としての本分を見失ったと嘆かれ、軽視されている現 在の僧尼の姿をです。読んでいて、わたしは大きなため息が出てきました。

日本の仏教の姿をみたとき、わたしのように鎌倉仏教の流れを汲むものはとくに、法然聖人と親鸞聖人の二大巨頭が成し遂げられた日本浄土教確立という偉業、 つまり本願念仏の教理の確立以後、さしたる発展を遂げることなく今に至っていると慨嘆せざるをえない日々を送っています。これはわたしが初めて言っている ことではなく、著名な方々が折に触れ、ご指摘されているそのままの受け売りです。つまり、「親鸞聖人以後、日本浄土教には目立った改革もなく発展もなく、 僧侶は惰眠をむさぼり続けてきた」と。

果たして本当にそうかという細部の検証よりも、「仏教界全体の停滞はどこに原因があったのか」「どこから始まっているのか」という視点でご指摘を受け止め るとすると、ひとつの答えは鎌倉時代に広がった仏教の民衆化にあるということではないでしょうか。鎌倉時代に仏教が飛躍的に民衆化した、それはその時代を 象徴する画期的な出来事でしたが、国民感情にそった仏教ができあがったとする慶事である反面、宗祖を無謬として見て、それ以後のたゆまざる改革をまったく あきらめさせたと言っても過言ではありません。平川先生のお言葉を借りるなら、人材は集まらず、改革することも求められない空気というのは、これは中国の 宋代と現代の日本仏教界が多くの部分で共通しているのかもしれません。

中国の唐代は激しい論争を戦わせた仏教と道教ですが、宋代は仏教が著しく道教化した時代と言われます。その結果、仏教が民主化したともいえますし、民衆化 するためには道教との融合が避けられなかったのかもしれません。道教と仏教の融合、これは我が国の葬儀のときなどに見る「位牌」に今も伝わります。「位 牌」は元来、道教で用いられていたものです。民衆化し、教理の定型化が進み、改革の機運も高まらず、教理をただ覚えれば良いという悪循環のなかで現代の仏 教界は苦しんでいる、これは決してわたしだけの意見ではないと思いますが、それが一般の方をして、法話から足を遠のかせている原因にもつながっているとわ たしは考えています。法話を聞くことの大切さを浄土真宗は語りますが、その法話がつまらない、これは最も耳の痛いご意見です。話者が覚えた教理をただ話す 法話であったり、親鸞聖人の年表を解説したりするだけの法話であれば、聞く時間がもったいない、そんな声を聞くこともあります。教理を覚えるだけではな い、そこに躍動する信仰と改革を進めようという気概も求められるのだと、平川先生のお言葉を読んで、叱責を受けた思いです。しかし、人生はかくも短いもの ですから、このお言葉のなかに学び、問い、深め、表わしていくには、ゆっくり急いでいく必要があるとの思いに至りました。

1 コメント

2012年

3月

30日

釈迦族滅亡とお釈迦様を武者小路実篤の戯曲から

釈迦族滅亡を描いた武者小路実篤の戯曲『わしも知らない』を読みました。(『わしも知らない 他十篇』岩波文庫、初版1953年。絶版のため、古本で買いました)

 

お釈迦様が王子としてご誕生され、やがて出家された歴史ある王国・釈迦族は、コーサラ国王の琉璃王(瑠璃王)に皆殺しにされて滅亡したとされています。釈迦族を滅亡させる計画があることを知っても、武器を取るべからずとおっしゃったお釈迦様は、平和と非暴力の象徴として描かれていますので、折に触れてご存じの方も多いと思われます。しかし、武者小路実篤さんがこのテーマで戯曲を書いておられたとは存じませんでした。大正時代に初演された一幕ものを集めたもので、短い時間でお読みいただけます。

 

釈迦族を大虐殺するという恐ろしい計画があることを知った、お釈迦様と目連尊者の会話から舞台が始まります。


目蓮「あなたはどうなさる御つもりです。」
釈迦「わしは黙って見ている心算(こころづもり)だ。
   それより他にわしには許されていない」


虐殺の計画をなんとか止めさせたい目蓮尊者、それに対して「ただ見ているだけしかない」とお答になるお釈迦様との行き詰る対話。何たるむごさかと思わずにおられない虐殺の描き方もさることながら、ドラマチックなラストに至るまでの過程で徐々に明らかになるお釈迦様の諦観のなかに、お釈迦様が開かれた悟りの深さは、ヒューマニズム全盛の現代人には容易に想像することができないほどのものだとつくづく思い知らされるのです。

人のいのちは地球より重いと申します。

その通りです。しかしその重さは何によって支えられているのでしょうか。いのちはいのちによって支えられていると考えるなら、いのちが終わってゆく寂寞と苦悩は終わりがありません。しかし、いのちは大いなる法則によって支えられていると考えるなら、寂しさと同体の真実に目覚める喜びが顕かになってくる、お釈迦様の視点はまさにそこにあったのかと、読後にわたしはひとり考えていました。永遠のものなどこの世の中に何もないという、しかし大いなる法則という永遠がたったひとつだけあるという釈迦一代の教えはまさにその一点に尽きます。虐殺事件の小悲のなかに、大いなる悲しみ、大悲を感じ取っておられたお釈迦様だけが語ることのできた「ただ見ているしかできない」というお言葉に表れていたのでしょう。

0 コメント

2012年

3月

22日

親鸞聖人750回大遠忌法要を振り返って

昨年4月から勤修されてきた親鸞聖人750回大遠忌法要が本年1月16日ご満座を迎え円成いたしました。50年に一度の大遠忌法要の集大成となる御正当法要は、わたしが親鸞聖人に感謝を伝える法要でもあります。親鸞聖人は今から750年前の1263年1月16日、凍てつく京都で90年に及ぶご生涯を終えられました。何も頼りにならず混迷を深める世で、さとりを目指し、阿弥陀如来にまかせて生きる浄土の教えを弘め伝えられたご生涯でした。浄土とはわたしの前生と後生を貫くただ一つの道です。この道がなかったらどこから来てどこへ行くのか、わたしは何者なのかという人生の根本命題は解決できません。わたしの人生の根本に浄土の一本道が開けることが、ご信心をいただくということです。この教えは、親鸞聖人がいらっしゃらなかったならば伝えられることのなかった法です。親鸞聖人の御命日にあわせて毎年報恩講を、50年ごとに盛大に大遠忌をおつとめしてきた伝統にはそうした背景があります。

 

今回の大遠忌法要は65日間にわたり115座がつとめられ、総参拝者は143万人に上ります。本年1月9、10日の2日間、淨泉寺からも住職夫妻が法要に参拝いたしました。法要では本山でこれまでで最大という800号のろうそくが新たに作られ、用いられました。重さ3キロ、高さ54センチ、手作りのため1本が3万円と高価ですが一度に2本、午前午後計7日間の法要で28本用いるという規模の大きさです。一回り大きな1000号も試作されたものの、燃焼実験で使用に適さないと判明し、実際の法要には800号が用いられました。わたしは、富山淨泉寺前住職であり祖父の五条袈裟を身に着けて出勤です(下写真)。

続きを読む 0 コメント

2012年

3月

13日

カフェで歎異抄講座はじまる

3月12日(月)から毎週月曜日17時から18時まで、東松山駅前まちカフェにて「はじめての歎異抄講座」開催しています。ひとり500円で事前申込みは必要ありません。答えのない人生だからこそ、関心のある方はどなたでもお越しください。テキストはこちらでご用意する予定です。勧誘はしません。座談会のようにカフェのテーブルを囲む形式です。ぜひ気軽にどうぞ。


ところで昨日の初回、女性がおふたり見えました。初めてにしてはと喜んでいます。「夫の実家は仏教でも違う宗派だけれども、わたしの実家は浄土真宗で、幼少時は法話に親しみ、浄土真宗での法事のご縁もときどきあり、親鸞聖人には親しみを覚えます」という、おふたりに共通する点がありました。女性は結婚と同時に、信じる教えも変えざるをえないことがあるということは、以前から聞いていました。結婚後、そのままご主人の御実家の教えにすっと入っていかれる方もいらっしゃるでしょうし、ご自身が生まれ育った風土で育まれてきた信仰が郷愁とともに思い起こされ、もう一度学んでみたいと思う方も中にはいらっしゃるでしょう。しかし、いざ学んでみたいと思ったときに、お寺で開かれる法座は敷居が高く感じられたのではないかなと、これは自戒とともに振り返らざるを得ません。ふっと思い立ったときに、移り住んだお寺で開かれている法話会に気軽に足を運べるかどうか、いろんなケースといろんな選択がありますが、お寺の側から見ると、お寺以外の場所で法話会をする試みがこれまであまり多くなされてきてこなかった反省があります。

 

お寺で開かれている法座や法話会は、門信徒以外にも広く門戸が開かれているとは言え、ご家族やご親戚の手前、ご主人と異なる教えの仏門をくぐってまで教えを求める女性には、心理的な敷居がとても高く感じられていたことと思います。ご家庭の事情に思いを馳せるなら、ご家族やご親戚に気兼ねすることなく、カルチャーセンターで教えてもらう程度の平易な言葉で、さらに気楽に立ち寄れる場所で、教えをもう一度ゆっくり聞いてみたいという方が少なからずいらっしゃるのではないか。仏さまのお話しを聞かずして、お浄土参りはできないということは頭でわかっていても、実際に足を運んで教えを聞くのはためらわれるというのが人間です。少しでも足を運びやすい場所、少しでもわかりやすい内容であれば、ひとりでも多くの方に親鸞聖人の教えの一端をお伝えしたいと思い、今回カフェを毎週お借りして、お伝えしていくことになりました。

 

これから毎週月曜日夕方に一時間だけ、カフェで歎異抄のお話しを聞くことができます。講師役として当寺住職と東松山市西照寺副住職の網代豊和さんのふたりが、毎週交代で勤めさせていただく予定です。できる限り長い期間、続けていきたいと思いますので、ひとりでも多くの方にお越しいただきたいと思っております。

0 コメント

2012年

3月

10日

仏教の真理

仏教の真理には一点の曇りもなく、わたしたちの寄る辺として、これからも永遠にわたしたちを導いてくださいます。混沌を極めている時代だからこそ、独立したその真理の孤高さは際立っているように見えますが、それを説く側の僧侶が、その真理を見失っているような気がしてなりません。

 

ブッダ入滅の言葉に「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(中村元『ブッダ最後の旅』岩波文庫)とあります。
法をよりどころとして、他をよりどころとせずということは、塊より始めよ、自分でよく考えてみるということでもあります。他人のお仕着せの教えをまとうのではなく、ダイナミックな仏教の真理そのものを、自分の言葉でまといなさいという勧めでもあります。

 

経典のなかの難解な言葉をひもとかずとも、わたしたちの身近な言葉で仏教の真理を語り、そこに仏性が宿っている、素晴らしい言語で躍動的に仏教の真理を語る僧侶が、現代に一体どれだけいるでしょう。仏教の真理は一点の曇りもないのですが、曇りがあるのは僧侶の側だと言えるのは、ただこの点において最も明らかだと思うからです。

0 コメント

2012年

3月

07日

大悲は小悲に寄り添う

昨夜のNHKクローズアップ現代「被災3000人のアンケート・震災の生きた記録」に感動。

父と母と娘が車で逃げようとした時、津波が襲って来た。
父が娘を乗せてエンジンをかけて出発しようとした時、乗り遅れた母が波にさらわれた。車は波に押されるように走り出していた。
母は「行け!行け!後を振り向くな!生きろよ~!」と叫んで、バンザイ、バンザイしながら流れて行った(文意)。

その場に居合わせなかった娘の母親がアンケートに答えた文章でしたが、お父さんとこの女性にはこのときの体験が悲痛な記憶として残り、ために両者には深い溝ができたとテレビのコメントは伝えていました。また、お嬢さんはそれ以来、自分で食べることができなくなったとも伝えています。バンザイを叫びながら離れていったお母さんは、その後ご遺体で発見されそうです。死んで悲しみ、生きて苦しむとはまさにこのことです。この苦しみをよくぞテレビで語ってくださいました。

わたしなどかけるべき言葉もありませんが、とにかく感動で胸がいっぱいになりました。生きるとは苦しみを抱えることです。その苦しみや悲しみに寄り添ってくださる大悲がなければ、たったひとりでこのつらい人生を生きていることと変わりません。世間では絆、絆と申しますが、家族や友人との絆も当てにならない状況だって生まれるということです。大悲は小悲にいつも寄り添うと思わずにおられません。

0 コメント

2012年

2月

27日

ふたつの葬儀と通夜について

本日、葬儀に参列しました。
その葬儀は市営斎場つまり火葬場で行われ、私は僧侶として炉前で読経をさせていただきました。
一般的な通夜と葬儀を経て、斎場に柩をお移しし、荼毘にふすというのではなく、その葬儀は最近増えているといわれる「直葬(ちょくそう)」とよばれるもので、斎場の読経室を一時的にお借りして、参列者が柩のなかにお花を手向け、10分程度の時間、葬送の読経を僧侶が誦している間にお焼香をいただく、とても簡素な葬儀でした。
その葬儀の後、故人様のご遺骨を皆さまと一緒に収骨し、斎場近くの墓苑に納骨に参りました。
斎場からご遺骨をもって帰宅し、四十九日や一周忌まではご自宅でお参りするというのがこれまでの一般的な流れですが、収骨直後に納骨するという、それは言うなれば最短のケースでした。
それはわたしもこれまで聞いたことのない、初めてのケースでもあります。
ご遺骨を持って帰宅できないご事情があるのだと、参列者のおひとりが教えてくださいました。
家族の形態が変わって、いろんなことを選択できる時代になったとはいえ、一抹の寂しさを感じてその墓苑を後にして向かった先で、別の通夜に参列しました。

その通夜はマンションの6階にあるごく普通のご自宅で営まれました。
自宅で長く看護を受けた方が、自宅で静かに息をひきとられ、自宅で通夜と葬儀が営まれる。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で描かれた昭和には、まだこのような看取りと葬儀が確かにありました。
先の葬儀が表現が悪いかもしれませんが、「段取り」のように事務的なものになっていた感は否めないのに対し、その通夜は残されたご家族3人だけで送ろうと初めから決めておられたため、故人様には懐かしいご自宅で通夜、葬儀を出したいとの強い願いのもとで営まれ、手厚い看護をなさった達成感と穏やかな看取りとで、ご遺族には涙がまったく無く、笑顔と笑いとたくさんの会話に囲まれた、アットホームな通夜でした。
ここまで書き、不謹慎を恐れずに言いますと、だんだん私も明日の葬儀に参列するのが楽しみになってきました。

対照的なふたつの葬儀と通夜に出遇い、介護や看護が難しくなったことや独身や離婚が増えたことも背景にあり、そもそも単に比べることはできないのですが、葬送の文化が日本社会から急速に消えようとしていることは確かです。
そして、それは日本人の心を映しているように思われてならないのです。

0 コメント

2012年

2月

08日

浄土は時間と空間を超えた世界

五劫思惟阿弥陀坐像
五劫思惟阿弥陀坐像

2歳の娘に絵本を読んで聞かせることが、ほぼ毎日の日課になりました。最近何度も読んで聞かせるのが落語や狂言の名句を集めた絵本で、なかに「寿限無」が出てきます。「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の、水行末 雲来末 風来末、食う寝る処に住む処、やぶら小路の藪柑子、パイポパイポ パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの、長久命の長助」。生まれたばかりの赤ん坊に名前をつけてもらおうと和尚さんのところに出かけた父親が、いろいろと教えてもらったおめでたい言葉を、すべて並べて赤ん坊の名前にしてしまうという話です。絵本でその話の一部が紹介されていて、長い名前を何度も聞いているうちに娘も「ごこうのすりきれ」と言えるようになりました。寿限無は寿(いのち)が限り無いということで、五劫とはとても長い時間ということです。親鸞聖人のお言葉のなかで、「まず、一辺が160㎞ある立方体の巨大な石があると仮定して、天女が三年に一度だけ天から降りてきて、その石の表面を羽衣でそっとなでることを繰り返し、その石が最後は無くなる時間を一劫といい、後に阿弥陀如来となる修行時代の法蔵菩薩はどのようにしてわたしたち衆生を救うべきかを、一劫の五倍の長い時間(五劫)をかけて考え抜かれた」(『正信偈大意』、浄土真宗聖典p.1023、意)と著わされています。上の写真をご覧ください。奈良市の十輪院に安置されている五劫思惟阿弥陀坐像です。仏像は制作を依頼した願主、そして作者の願いを表すことが多く、五劫の長きにわたって悩みぬかれて、頭部が肥大化された阿弥陀様のお姿は、無言のなかにも深いお慈悲のはたらきを観る者にはっきり伝えてくださっています。ところで、十輪院は奈良市の商店街の一角に相談センターを開設し、ご住職がふれあいの会を開催されるなど、新しい取り組みを進めていらっしゃることでも知られます。こちらのホームページもご覧ください。

 

話をもとへ戻しますと、五劫という時間は、時間である以上、始まりがあって、終わりがあります。ところが寿限無とは寿(いのち)が限り無いということ、つまり永遠ということで、始まりはなく、終わりもありません。それは時間という単位を超えた時間です。直截的な表現をすれば、寿限無のほうが五劫より長い。寿限無、つまり時間がないということは、形を持たないということと同じです。わたしたちの世界は三次元、つまり形あるあらゆる物質によって構成され、それは時間のあるところに形があるという、形があるもののあるところに時間があるという物理学の必然でもあります。親鸞聖人がお示しくださった『正像末和讃』のなかに「超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり」(浄土真宗聖典p.603)とあります。法蔵菩薩が五劫の長きににわたって思惟された末、超世つまり国境を超え、時代を超え、人間であろうと動物であろうと、すくいに賛成するものはもちろん反対するものであろうと、あらゆる衆生を救いとっていく如来の深いお慈悲のはたらきとは、すなわち光明無量と寿命無量の願いそのものなのですという意になります。光明無量とは光に限界がないということです。わたしたちの世界の光は、たとえば太陽の光をちょっと帽子で遮ったりしますと、その帽子の影ができますね。これは限界があるということです。光明無量とは遮るものがないということであり、あらゆるものを貫き通す力があるということです。また、太陽には大量のガスが集まってできた球体としての形がありますが、光明無量とは形を伴っていないということです。球体から放たれた光ではなく、光が放つ光そのもの、それこそ光明無量の本当の意味するところです。光源を持たず、光が届く限界もないから、どこでも届き、どこまでも届くということです。言いかえれば空間を超える、空間にしばられない自由な存在です。また、寿命無量とは寿が限り無いということ、つまり寿限無と同じです。わたしたちの世界は時間によって構成され、時間のなかに生かされるものは限りあるいのちとと定まっていますから、寿命無量とは言いかえれば時間を超える、時間にしばられない自由な存在です。つまり、光明無量と寿命無量とは、空間と時間にしばられない自由闊達な存在であり、阿弥陀如来と、阿弥陀如来の浄土はそうした空間と時間を超えた存在そのものを指すのです。いのちの終わりには浄土へ参らせていただく、それが浄土真宗の教えです。浄土とは時間と空間を超えた存在です。それはすなわちわたしのすぐ隣に浄土があり、亡くなった人がいてくださるという暖かさを伝えてくれる教えでもあるのです。

2 コメント

2012年

1月

24日

真宗の安心

浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺(京都市下京区)でほぼ一年間にわたって御修行になった親鸞聖人750回大遠忌法要が、2012(平成24)年1月9日から16日まで一週間にわたって続く御正当でいよいよクライマックスを迎えました。昨年4月からの法要は65日間、115座、143万人もの参拝があったといいます。9日午後2時、御影堂で法要が始まり、大谷光真門主(66)が親鸞聖人の座像「御真影」様をお収めしている御厨子の扉を丁寧にお開けになりました。次期門主の光淳新門(34)が導師を務められ、およそ4,000人の門信徒が手を合わせお念仏いたしました。

法要の後、僧侶らが信仰を告白して批判を仰ぐ伝統的な儀式「改悔批判(がいけひはん)」があり、31年ぶりに光真門主おんみずから、門信徒らを前に親鸞聖人の主著であり浄土真宗の根本聖典『教行信証』についての理解をお示しになられました。

この「改悔批判」の故実は『御文章』によりますが、往古は領解出言が各自不同で前後錯綜するため、第八代蓮如宗主が「領解文」をお作りになって模範とされたといいます。報恩講参集の道俗に自督の安心を御影前において出言させ、その正否を批判するのは法主の特権であり、この御手代を命ぜられた歴代勧学を「与奪者」といって重んぜられてきました。昨今、拝聴される方が少ないのが残念なところですが、まったくの初心者の方には何を読んでいらっしゃるのか難解な部分もあろうかと思い、親鸞聖人750回大遠忌法要御正当の御勝縁でもございますので、光真門主の御親読による「改悔批判」全文を録音を元にお言葉を起こし、以下に掲載することといたしました。真宗の御安心を聞く上で、これほどの御法話はないものと思います。

続きを読む 2 コメント

2012年

1月

04日

心を弘誓の仏地に樹てる

み教えに出遇う人生を歩んでほしい
み教えに出遇う人生を歩んでほしい

今夏開催されるロンドン・オリンピックに向けて注目を集める選手がいます。マラソンの川内優輝さんです。川内さんは埼玉県職員として働く公務員の市民ランナーで、実力は日本人トップレベル、その素朴な人柄と、ゴールに倒れ込むまで懸命に走る姿が人気の若手です。わたしも埼玉県に住むひとりとして、川内さんを応援しています。川内さんは雑誌のインタビューで自分のマラソン人生を振り返り、こう話していました。「高校時代は五千メートル14分台を目指し、駅伝で埼玉県代表として走れば、箱根駅伝の強豪校からスカウトされるだろうと、将来陸上の道を進む夢を持っていましたが、高校二年生で腸けいじん帯を傷めたため、高校生活の後半は全く走れず、最大の挫折を味わいました。進学した学習院大学では自分に才能もなく、実業団からの誘いも来ませんでした。大学卒業後もしばらく母校の監督に指導を受けていたのですが、徐々に自分の理想とのギャップに悩むようになり、走行中に派手に転倒したことがきっかけで、指導者から離れて独立することを決めました」。川内さんは現在監督やコーチを持たず、トレーニングを自分で考え、ひとり黙々と練習するスタイルで知られています。「振り返ると、挫折と失敗の連続でした。ケガをしたから無理せず走ろうと思い、弱小校だから自分なりに工夫し、市民ランナーだから時間をやり繰りしてトレーニングに集中しなくてはいけない。落ちこぼれたことやエリートの道を外れたことは、自分にとって発想の転換になりました。だから私は、走るということが実業団か市民ランナーかの二者択一ではないということを知ってもらいたいのです。自分に合った形を見つけることが、競技を続けるうえで一番大切だということを若い世代に伝えたいのです」。川内さんは大学時代の恩師で陸上部監督、津田誠一さんの言葉がいまも思い出されるそうです。ハード過ぎるトレーニングで故障がちだった川内さんに、津田監督は言いました。「頑張るな」。この言葉を何度も聞き、川内さんは不思議と記録が伸びたと語っています。

 

 

「頑張るな」。わたしたちは反対に「頑張ろう」と自分自身を励まし、「頑張って」と人の背中を押します。では、何を拠り処に頑張るのでしょう。わたしたちの心は日々、単に社会的な価値観に押し流されているに過ぎません。ただ押し流されているだけのわたしが、何を「頑なに」「張る」というのでしょう。大地がなければ種は芽吹かないように、ゆるぎない大地に根をおろすことはわたしたちの人生で最も大切なことです。それはお金という大地でしょうか。名誉や学歴という大地でしょうか。家族や夢という大地でしょうか。大地に根を張っていなければ、頑張ることも頑張らないこともできません。親鸞聖人がお示しくださった数々のお言葉のなかに、「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す(教行信証後序、浄土真宗聖典p473)」というお言葉があります。わたしの心を本願の大地に根を張り、思いを不可思議の大海に流そう。それは親鸞聖人ご自身のお気持ちでもあったと思います。わたしの心は阿弥陀如来のお心の大地にしっかりと立てる、それは成功も失敗も、どんなときも揺るがない根をおろすことです。台風がきて枝のたくさんの葉が舞い散ろうとも、大地の下では太い根がびくともしない、揺るぎない大地に自らをゆだねていくことです。同時にそれは、社会的な価値観に押し流されてきたわたしが、いかにつまらないものを握りしめてきたか、いかに頼りにならないものを頼りにしてきたかわかることでもあります。人生を通して拠り処になるものは、たったひとつしかありません。わたしの心が仏法の大地にしっかりと根をおろしていれば、日々の感情と思いは、人生の順境も逆境も見通した教えの大海のなかに安心して流すことができます。人生の拠り処となる深い教えに出遇えたよろこびは、頑張る、頑張らないという世界を超えた、何ものにも勝る安心を与えてくださるのです。

 

釋学誠
0 コメント

2011年

11月

17日

聞思莫遅慮とは

何に手を合わせるの?
何に手を合わせるの?

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ

(親鸞聖人、『教行信証』総序より、本願寺出版社)

 

ブログタイトルの「聞思莫遅慮」は、親鸞聖人の主著『教行信証』正しくは『顕浄土真実教行証文類』の序文である「総序」からの引用です。「聞思して遅慮することなかれ」。阿弥陀様の願いを聞いて、いろいろ自分で考えて迷ってはいけませんという、親鸞聖人の厳しいお言葉で、わたしがことあるごとに思い返して味わうお言葉です。

 

縁あってわたしは父と母の間に生まれ、お育てをいただき、阿弥陀様の願いを聞かせていただく身となり、いまこうしてブログを書いています。ここに至る道はけして平坦なものではなく、山あり谷あり、酸いも甘いもありました。それはひとえに阿弥陀様の願いを聞かせていただくための道だったのだと思い至ったのは、つい最近のことだったように思います。東日本大震災が発生し、いのちがいとも簡単に失われてしまうのだと知らされ、わたしのいのちも明日をも知れぬ身だったのだと気づかされました。原発の事故を見て、「日本人はなぜこんなに無責任になったのだ!」と怒っていますが、自分の命日を知らずに生き、自分のいのちがどこへ帰っていくのか知らない、それこそ自分のいのちに無責任です。他人に無責任と怒る前に、自分にすら責任を果たせていない、それが現実です。わたしたちのいのちがどこから来てどこへ向かっているのか、その問いは大変重要です。その問いこそ、自分のなかの声に耳を澄まし、自分のいのちをたどっていく大切な出発点です。

 

その問いのなかで、わたしは自分のなかにどれだけ聞いても耳を澄ましても声などないと感じ、その問いのなかで阿弥陀様の願いを聞くという縁をいただきました。人生に人それぞれいろいろあるように、阿弥陀様の願いを聞く道にもいろいろあり、わたしの問いが良かったという意味ではありません。その人それぞれに問いを持ち、生きていくなかで、僧侶であった父、お寺を盛り立てていた母、兄と同じ信仰の道を歩んだおかげで親鸞聖人のおすすめくださる安心の道を歩み、ようやく阿弥陀様の願いを聞かせていただけるまでになりました。阿弥陀様の願いを聞くとは、阿弥陀様がわたしにかけてかけてかけ続けてくださっている願いを聞くことで、その願いとはただひとつ「南無阿弥陀仏を称えておくれ」という願いです。願いはひとつですが、その願いひとつにこめられた阿弥陀様にも平坦ではない道があって、ようやくそのひとつの願いにたどりつかれた、願い中の願い、選びぬかれた願いです。その願いを聞き、あれこれ自分で迷い考えてはいけない、戒めの思いで親鸞聖人はお示しになり、わたしもその言葉の意味をよくよく味わいたいとブログタイトルに揚げさせていただきました。

0 コメント