西本願寺大谷光真門主が御退任

大谷光真門主
大谷光真門主

 西本願寺住職であり浄土真宗本願寺派第24代門主の大谷光真門主(67)は本年6月5日で御退任され、第25代門主に長男の光淳新門(35)が御就任されます。門主の交代は1977年以来、37年ぶりのことです。本願寺派の門主は宗祖親鸞聖人の子孫で、約750年にわたって血脈でつながって参りました。光真門主は父の光照前門から31歳で門主職を御継承され、全国500余りの組すべてを御巡教されただけでなく、北米やハワイ、欧州などの海外開教区へも精力的に赴かれ、財団法人全日本仏教会会長として国内外に向けて積極的に御発言され、御著書も多数あります。本願寺派の僧侶は、当時の門主を戒師といただいて得度するのが伝統で、わたしは18歳で得度いたしましたが、当時の戒師は光真門主でした。光真門主が戒師となってくださったことで、中身が整わない未熟なままでも僧侶とならせていただき、わたしにとって光真門主は善知識です。善知識とは真理に導いてくださるかけがえのないお方を指す仏教の言葉で、お経に「善知識にあい、法を聞き、よく行ずること、これまた難し」(『仏説無量寿経』)とあります。


 その光真門主の御法話には優しいお人柄が本当によく出ているといいますか、御著書の文章にも優しさを感じるといいますか(誠に恐れ多いのですが)、なかでも2007年に立命館大学で行われた連続講義「現代社会と宗教」で、受講生の質問への応えをいまも時々読み返します。それは、連続講義の内容に対する質問を受け付けたところ、講義のなかでは応じきれない量が寄せられため、質問すべてに光真門主が後日、文書で回答されたもの集めた記録です。質問とはいえ、伝統教団から新興宗教までをひとくくりにして「宗教は嫌いだ」というものから、世界各国にみられる宗教と戦争の歴史、伝統教団の説く教義が現代社会からかけ離れていることなどを批判するものまで様々あります。一例をご紹介しましょう。


 学生:「阿弥陀仏を信じることによって救われる」の「救われる」や「極楽往生」の考えをあまり実感できません。それについてお話ししてくださると嬉しいです。
 光真門主:一度本を読んだり、話を聞いたらわかるというものではありません。また単に頭、知識だけで理解するというものでもありません。折にふれてご法話などを聞いていただき、経典のお意を語った仏教書、信仰に生きる人に接することが大事なのではないでしょうか。そういうことを通して、阿弥陀仏のお浄土からのはたらきに気づかせていただくのです。そのことが救われることにつながります。
 一つ注意しなくてはならないのが、凡人の体験のみに固執しすぎると、妄想と真実を取り違える恐れがあるということです。言葉による表現、体験談、譬え話など、これらは宗教的な内容を指し示すものであって、真理そのものではありません。これらによって示された真意を受け取らねばならないということです。
 例えば極楽浄土は、私たちの先達として、法然聖人、親鸞聖人が阿弥陀さまを信じてお念仏申して往生(往き生まれる)されたところ、わが祖先が、わが両親が阿弥陀さまを信じて往かれたところと、思い浮かべてはいかがでしょうか。夕陽を見て、西方極楽浄土へのおもいを深めた人々も多いことです。
 「救われる」ことの一つは往生成仏することですから、この世で体験することはできませんが、人生の方向、目的地が確かになるという意味で、この世の人生生活の支えとなります。特に、人生の上で辛い時、不安な時、何か(阿弥陀さま)に支えられている、見守られていると感じられれば、受け入れ、乗り越えることができるでしょう。これが二つめのこの世で「救われる」ことです。
 さらに申しますと、この二つめの「救われる」は自分の姿を知らされる、有限な人間であること、何かのきっかけでとんでもないことを言ったり、したりする私であることを知らされるとともに、その私の全体が阿弥陀如来によって支えられている、受けとめられているという、深いめざめをともなっています。そこから生きる喜びや、他のいのちと共に生きるすばらしさ等の実感が育ってきます。

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