親鸞聖人御消息第一通の冒頭、「有念無念の事」というタイトルは後世に何者かが書き加えたメモとされ、全体は臨終の来迎(お迎え)のこと、次いで正念のこと、そして有念無念のこと、また教えに真仮があること、最後に釈迦如来の善知識のことが記された内容となっています。ひとつひとつの項目は読んで理解できないことはないとしても、全体を通して何かしら不明瞭な感じがするのはこれが手紙の「返信」であって、これに対応する「往信」を読まないことには、つまり質問を読まないことには、全体を把握することは困難です。これまで歎異抄を読んでまいりました経緯を元に、仮にその質問を書き出すとするとおよそ次のようになるでしょう。
「『観無量寿経』には臨終に阿弥陀如来と菩薩方のお迎えがあることが説かれています。しかしそのお迎えを受けるには臨終に心の乱れがない、正念の境地で往生を願うのでなければなりません。その正念の境地とは有念でしょうか、それとも無念でしょうか。また<下品>では臨終の正念や仏のお迎えについて、善知識が重要な役割を演じていますが、善知識とは誰にでも必要なものでしょうか。釈尊は師無くして独りで悟りを開かれたと聞きます。釈尊は例外なのでしょうか」。
信心深い人は臨終に阿弥陀如来や菩薩方のお迎え(来迎)のあると、『観無量寿経』に説かれています。そのお迎えの様子は一様ではなく、それは生前の行い(業)によって分かれると説かれます。しかし親鸞聖人はそれを方便(仮の教え)と見られ、南無阿弥陀仏という仏のみ名を与えてすくうという念仏往生の誓願には、生前の行いによってすくいが分かれることなく、すくいはひとつであるとし、臨終を待つことなく平生に誓願を受け取る、おまかせするようお示しくださいます。さらに経にいう正念は私の心の状態を指すのではなく、南無阿弥陀仏そのものが正念なのですと、つまり逆方向のベクトルのはたらきによって私は「まさしく念じられている」、それが他力の正念だと味わわれました。
有念や無念については聖道門の考え方だとお示しになっておられるのは、当時信心の境地を有念だ、あるいは無念だと語る人によって混乱が生じていたのでしょう。限られた情報のなかで当国の門弟たちは、本願力回向の念仏をどう受け止めるべきか、模索を続けていたのではないかと想像されます。これに対し本願力回向は一面他力、全面的な他力だと親鸞聖人はお示しになられ、また不可思議の教えだと味わわれたのですが、こうした書簡の往復を通して、「わたしがどう受け止めるべきか」についとらわれがちな人間の姿が浮かびあがってくるような気がいたします。
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