よくよく考えてみれば、わたし一人の願いだった

  親鸞聖人は35歳の1207年に京都から越後にご流罪になり、1211年赦免された後も伝道教化のためしばらく越後に留まった後、1214年に上野佐貫(群馬県)で三部経千部読誦を発願・中止して常陸(茨城県)へ向かったと資料に残されていますので、2014年は親鸞聖人関東ご入国800年にあたります。伝道教化の場として、なぜ関東を選ばれたのかはっきりしませんが、法然聖人門下でともに学んだ念仏者を中心とするグループが既にいくつかあり、親鸞聖人は教学顧問のような存在だったと考えられ、それが大きな理由になったのではないかと現在では考えられています。『親鸞聖人門侶交名牒』には48名(洛中7名)、『二十四輩牒』には30名(重複を除く)、合計すると70名あまりの念仏者のグループが、下野、常陸、武蔵、奥州、遠江、越後に点在していたとされます。法然聖人亡き後、次第に異解が広がる様子に危機感を募らせ、念仏の「正しい教え」を伝えなければという使命を人一倍強く感じていらっしゃったはずです。

 正しい教えと言うと「立場が変われば正しいという理解も異なる」と反論される方もあるでしょうから、ここで言う正しい教えを「法然聖人の教えに立脚した」と言い換えても構いません。歎異抄後序と御伝鈔にあらわされた信心一異の諍論では、親鸞聖人が「他力よりたまはらせたまふ」と信心が一つである理由をあきらかにし、これに対して法然聖人が信心には同異がある、それは自力の信と他力の信の別があるからだと答えられた、吉水でのやりとりが描かれています。法然聖人は口癖のように「自らのはからいが無い、それが本願力回向です」と語り、称名念仏する人すべてが往生するのでしょうかと尋ねられれば、「それが他力の念仏であれば往生浄土いたしますが、自力の念仏では往生は無理です」(『念仏往生要義抄』)とお答えになったお方です。師の教えを承けて親鸞聖人は、本願力回向を受けた信心はすなわちひとつであると語り、異解が生じてくるのは異なった信心を持っているからであると、その信心が如来よりたまわったものでなく、各自が自己のはからいによって造りあげた自力の信心だからだと指摘されました。念仏はそれがすでに無上の徳を持つと経典に示され、称えることと聞くことで徳を味わうのだと浄土教でいただきます。それは称えることや聞くことによって何かを付け加えようという世界ではないのです。

 歎異抄後序に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とあります。わたしたちは燃え盛る家にいるようだという譬えの背景には、煩悩の炎に身を焼かれるすべての人の真っ只中にあって、わたし(親鸞)こそ最もひどいんだと、わたしこそ「底下の凡愚」なんだとの親鸞聖人の心からの叫びが隠されています。だからただ念仏しかないと、「ただ」といただかれるところへつながっていくのです。仏法にいろいろあるけれど、「この」わたしには「ただ」これだけなんだと。「この」と「ただ」に至るまでがとても長い道のりですが、宗教とは「この」と「ただ」に導かれるもの、私はそう思います。

 親鸞聖人は生前こうもおっしゃっていました。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」。法蔵菩薩でありし頃、世自在王仏にお会いして以来、五劫というとてつもなく長い時間にわたって阿弥陀如来が自らに問いつづけたのは、世界は不平等や苦悩に満ち、人々は互いを差別しながら束縛しながら生きていることに対し、わたしは何ができるのか、世界と人々にどう答えるべきかということでした。そして、南無阿弥陀仏という仏のみ名を与えてすくうという念仏往生の誓願を立て、この誓願を永劫の修行によって完成して阿弥陀如来となられたのだと、経に説かれます。仏のみ名を称える念仏往生だけが平等のすくいであり、法然聖人は本願力回向の念仏を選び取られ、その理由を「阿弥陀如来の願いがわたしにそうさせたのだ」と味わわれました。なぜなら、それがみ名の力だからです。日本人は古来、名前に力が宿ると信じ、釈尊入滅後のインドでもそう信じられ、仏のみ名を称える念仏が生まれ、仏教は世界的に広まりました。世界が不平等や苦悩に満ちていることも、人々が互いを差別しながら束縛しながら生きていることも、阿弥陀如来のなかでは既に解決した。「よくよく考えてみれば」(親鸞聖人)その力をいただく以外に苦悩を超えていくなどできないわたしでありました、の嘆きと喜びが聞こえます。