東日本大震災から二年を迎えた報道のなかで、とても印象に残ったテレビニュースのリポートがありました。津波で中心部が壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町に暮らす遠藤美恵子さんは、津波で娘を亡くし、この2年間、娘のことを思い出さない日はなかったといいます。「いまだに信じられないです。まさかわたしたちより先にこういうこと(死ぬこと)になるなんて、想像もしていなかったです。人生のなかで有り得ないことでしたから」。
2年前の3月11日、町の職員だった娘の未希さんは町庁舎から最後まで避難を呼びかけました。「ただいま当町に大津波警報が発令されました。最大6メートルが予想されますので、急いで高台へ避難してください」。この呼びかけによって多くの命が救われましたが、未希さんは帰らぬ人になりました。娘が生まれたとき、未来への希望という意味を名前に込めたそうです。その娘に役場への就職を薦めたのは美恵子さんでした。そのことを思うと自責の念に駆られ、次第に庁舎へ行くこともできなくなっていました。
あれから2年、踏み出す一歩を探し続けてきた美恵子さんは去年10月、自宅を整理をしていたときにあるものを見つけました。それは未希さんが未希さん自身に宛てて書いた手紙でした。「ぜんぜんこういうものがあるのも分からず、このまま整理しなければ見つけていなかったですね」。津波でにじんだその手紙は、二十歳になった誕生日に書かれたものでした。これから社会に出る自分に宛てた言葉が並んでいました。「あなたも今日から二十歳だよ。いつまでも輝く笑顔を失わず、素敵な女性へと成長してください。夢を持ち続け、前進し、前向きに」。明るい娘らしい言葉に胸を打たれていたとき、ふとページを開くと、思わぬ言葉が綴られていました。
「人生って楽しいことばかりじゃないけれど、苦しいことやつらいことを乗り越えてほっとしたとき、いつも心に浮かぶのはこのひとことです。お母さん、わたしを産んでくれてありがとう」。
娘の心は津波にも消えることなく、母に届きました。「未希はわたしから産まれて本当によかったんだなって思っているのが、初めて分かったんですね。自分を責めていたのが、これを読んで本当に少しですけど気持ちが軽くなりました」。いま美恵子さんはボランティアたちと一緒に再開したワカメの収穫作業に携わっています。「その日その日精一杯、季節が変わればそのたびに未希を思い出し、楽しいことがあれば今日は楽しかったんだよ、いつも悲しいことばかり報告するんではなくて、これからこんなことがあったよって報告できるようにね、そういった生き方をしていかないといけないんだなって感じています」。
「お母さん、わたしを産んでくれてありがとう」。亡くなる前に直接言いたかったろうし、美恵子さんも未希さんの口から聞きたかったことでしょう。それを思うと可哀そうでなりません。しかしその感謝の言葉はまったく色褪せず、手紙に書かれたわずかこれだけの文字が美恵子さんを突き動かし、美恵子さんの寂しさと罪悪感に閉ざされていた心の扉を少しだけ開けました。感謝、謝罪、中傷、さまざまな言葉は、言葉を発したその人が死してもなお、はたらき続けます。美恵子さんは娘からの感謝の言葉を手紙で読み、「産まれてきてくれてありがとう」と涙ながらに何度も言ったことでしょう。親を憎む子、子を嫌う親と言えど、産んでくれてありがとうと産まれてきてくれてありがとうの対話を望まない人などいません。自らの存在を認めたい、認めてもらいたい。なぜなら、わたしたちは他者からの感謝の言葉によって生かされているからです。
しかしそれは誕生に始まり、死ぬまでの一生の間のこと。わたしが生まれる前と死んだ後もなおはたらき続ける感謝の言葉、それは南無阿弥陀仏の念仏です。南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来の名前であり、はじまりがなく、終わりもないわたしの全存在を認めてくださるはたらきそのものを指すと同時に、そのはたらきへのわたしからの感謝の言葉です。ゆえに、念仏はわたしと阿弥陀如来との、時空を超えた感謝の対話だと言えるのです。
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