他力の悲願はかくのごとし

都内にて
都内にて

歎異抄 第九章
一 念仏まふしさふらへども、踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)のこゝろおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこゝろにてありけり。よくく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよく往生は一定(いちじょう)おもひたまふなり。よろこぶべきこゝろをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに、仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)の凡夫(ぼんぶ)とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよくたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまひりたきこゝろのなくて、いさゝか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこゝろぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいまゝで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだむまれざる安養(あんにょう)浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくく煩悩の興盛(こうじょう)にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土(ど)へはまひるべきなり。いそぎまひりたきこゝろなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそいよく大悲大願はたのもしく、往生は 決定(けつじょう)と存じさふらへ。踊躍歓喜のこゝろもあり、いそぎ浄土へもまひりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんとあしくさふらひなましと[云々]。




踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)とは経典に出てくる言葉で、<踊躍>は喜びが全身の動作に表れた姿、<歓喜>が心身に満たされる喜びを指します。

「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん」(『無量寿経』第44願)。

信心を得た菩薩は歓喜し、踊躍し、それが永遠に続くと経典に示されるものの、一時感じた信仰の喜びが永続しない、新鮮さが薄れ信仰の倦怠期にある自分自身に、唯円は悩みを深めていました。また、念仏によって西方浄土への往生は確かと信じているものの、急いで往生したいと思わないのは本物の信仰と言えないのではないかという劣等感にも苦しんでいました。

この二つの不安に対し、親鸞聖人は「わたしも同じです」と、唯円とまったく同じ視点で見ています。相手を包み込むような温かなお人柄が偲ばれます。親鸞聖人も唯円も、信の一念によって生じる歓喜踊躍の心を経験なさった人です。信の一念とは阿弥陀如来の智慧の光に包まれる信体験のことで、永遠のなかの一瞬の出来事です。その一瞬が人知のなかでは永続しません。人間が幸せを味わうのは一瞬にすぎず、時間と共に忘れてしまう。時間が経てばよろこべなくなる、あるいは最初からよろこぶことができないのは信心が足りないからではなく、煩悩をもった人間には歓喜踊躍の感動が永続することなど始めから不可能だと阿弥陀如来にはわかっていたからこそ、人間の手を離れたところで阿弥陀如来は願い(他力)を完成させる以外にすくいの方法がなかったのです。「よくよく案じてみれば」、人間は願うと願わざるとにかかわらず浄土に包み込まれるよう生きています。それを親鸞聖人は自然法爾(じねんほうに)という言葉で表されました。

久遠劫という時間のはるか昔から、私たちは流転輪廻を繰り返してきました。「自身は現にこれ罪悪(ざいあく)生死(しょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もっ)しつねに流転して、出離(しゅっり)の縁あることなしと信ず」(善導大師『観経四帖疏』)と言われるように、せいぜい数十年前に生を受けたのは現在の姿形をしたわたしに過ぎず、本質的な意味のわたしという存在はこれまで数えきれないほどの流転を繰り返し、今に至っています。急いでまでお浄土へ行きたくないのは、久遠劫という時間にわたって本質的なわたしが住み慣れてきた娑婆への執着がいかに強いかということです。執着とは煩悩です。煩悩ゆえによろこぶべきところをよろこばず、ちょっとでも死にそうになれば不安を覚える。

しかし、煩悩があるゆえにわたしの浄土往生は間違いないと、なぜそこまで言えるのでしょう。煩悩は智慧の光に浮き彫りに照らし出されています。それは事実です。その智恵の光の根源は、「仏かねてしろしめして」とある、煩悩具足の凡夫をすくうために法蔵菩薩がありとあらゆる状況と方策を検討して、阿弥陀如来となって誓願を成就されたところが根源なのです。

一体、わたしたちが往生する証拠はどこかといえば、その証拠は移ろいやすいわたしたちの心の中にではなく、南無阿弥陀仏のお姿そのものにあります。法蔵菩薩がすでに成仏していらっしゃる、誓願がすでに成就しているということが、わたしたちの往生の何よりも頼もしい証拠なのです。

第9章の味わいは「他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけり」、この一文から始まり、この一文に極まっているといえます。他力といい、悲願といい、誓願ともいわれるはたらきはわたしを目当てに、わたしの煩悩を目当てにはたらいているということ、そして煩悩が真っ盛りということは他力の悲願がはたらく真っ盛りであると同義であります。その他力のはたらきの真ん中に、煩悩の真ん中にわたしがいる、それが親鸞聖人の味わわれた「よくよく案じみれば」の世界観だったのだと思うのです。