ものにはいのちがあります。生き物だけではありません。あらゆる存在すべてにです。
わたしが小学生の頃、クラスのなかにやんちゃな男の子 が遊んでいるうち、長い定規で友人の頭を軽く叩いたことがありました。「そんなことをすると、定規が泣いているよ」と先生は言いました。本当に定規は泣く のか、そんなこと嘘だって思いましたが、今になって思い起こしてみるとあれは「定規にもいのちがある」ということを教えていたんだと思えます。定規が定規
以外の目的で使われる、それは定規も望んでいません。定規にもいのちがあるのです。
また同じころ、わたしの靴下に穴が開くと、洗濯した翌 日にはその穴がきちんと縫われてタンスにしまわれていたことが度々ありました。いずれも「もったいないから。まだ履けるから」と祖母が縫ってくれていたも のでした。わたしの生まれそだった富山の言葉でそうやって縫うことを「つんき」といいます。つんきされた靴下は格好が悪く感じられ、恥ずかしいからイヤだ
と何度も言ったのですが祖母はその都度、「もったいないから。まだ履けるから」と言います。今にして思えば祖母は、靴下にもいのちがあると教えていたので しょう。
わたしたちの周りに、様々ないのちの姿があります。それらはすべて輝いています。わたしたちの目にはそう見えませんが、いのちは 輝いています。先日知人の奥さんの出産祝いで産科へお見舞いに行き、新生児室に並ぶ何人もの赤ちゃんの寝姿を見る機会がありました。生まれたばかりの赤
ちゃんは輝いていました。そのことは皆さんもきっと同じ感動を覚えられるでしょう。しかし、赤ちゃんばかりでなく、あらゆるいのちは輝いている「はず」で す。かくいうわたしにもそう見えません。「ものにはいのちがある」。こう教えてくれた方の言葉の裏には、「わたしにもお前にも、もののいのちは見えない
が、いのちは本来輝いているものなんだ。だからいのちは尊いんだよ」と伝えたかったのではないかしら。
あの頃わたし教えられたように、い ま子どもたちを諭すことが増えた年齢にわたしも達しましたが、子どもたちがもののいのちを粗末にするような場面に遭遇したとき、何を言ってあげられるだろ うか。わたし自身、あらゆるいのちを大切にして生きているだろうか。自分自身への問いがまだ続いています。
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