釈尊一代がお勧めくださった仏法は、万人に開かれた悟りの実践に外なりません。万人に開かれたということは、身分や性差を超えて、誰にも開かれたというこ
とで、それは釈尊在世のインド社会が厳しい身分社会であり、女性蔑視の社会であったことを考えると、画期的な実践方法であったことが想像できます。そして万人に開かれたという教えだからこそ、2500年もの歴史の間に、幅広い解釈が生まれたのだとも言えます。日本の仏教と隣国韓国と中国、ブータン、東南アジアや南アジア諸国、そしてインドに伝わる仏教は、一目には別の宗教かと思えるほどの違いを互いに持っています。
その違いは実践です。合掌する姿は万国共通ですが、お経はもちろん、坐るスタイルも様々、何をもって悟りを目指すかの方法論はもっとも大きな違いでしょう。悟りの実践とは、何のために生きているのかの答えを探す道程とも言えます。わたしが尊敬している大峯顕先生(大阪大学名誉教授)は何のために生きているのかと問われて、「死ぬことが心配ないようになるために、生きているのです」とおっしゃいました。親鸞聖人は「わたしに弟子はひとりもおりません」とおっしゃって、お弟子さんに自らが教えをほどこしたとは考えておられません。各自が阿弥陀如来から教えをいただくんだというお考えです。
つくべき縁あればともなひ、
はなるべき縁あればはなるゝことのある
(『歎異抄』第六章)
師弟の間といえども、前世からの因縁によって定まっている運命、つくべき運命があれば弟子は師につき、離れるべき運命にあれば弟子は師から離れるものであ ります。広い大宇宙にたったひとりでわたしは生を受けて、たったひとりで死んでいかねばなりません。何のために生きているのかという根源的な問いを持たね ば、そしてその答えを見つけるまでは、ただ不安な一生です。
釈尊がお勧めくださった仏法は、万人に開かれた悟りの実践であったはずです。万人に共通のすくいが、「わたしの」すくいとならなければ、仏法を聞いて実践
する妙味がまったく薄れてしまいます。落語家の立川談志さんがわたしは個人的に好きでしたが、亡くなってから映像で見てもその素晴らしさは伝わってくるものの、生前の迫力にはかないません。映像や音声、書物で伝わる魅力というのは、生の魅力の100分の一にも満たないと思うからです。釈尊と同時代を生きることのできないわたしたちは、釈尊の教えを書物でしか味わうことができません。そこで感じられた魅力を百倍して初めて、釈尊一代の魅力にようやく迫れるのではないかと最近思えるのです。親鸞聖人のお言葉もそうです。書物に残されたお言葉を何十倍も何百倍もしてはじめて、「わたしの」すくいになってくると思います。「万人に開かれた」で済ましてしまわず、「わたしの」すくいにならなければ、画餅のままで終わります。頑張るあなたへ。実践していきましょう。味わっていきましょう。
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