今年6月、富山大病院に低酸素脳症で入院していた男児に対し、国内で初めて6歳未満の子どもへの脳死判定が行われました。脳死判定を受けて臓器提供という重い決断をされた男児のご両親が発表されたコメントをニュースで聞き、わたしも感銘を受けました。そして、ふと宮沢賢治の詩の冒頭の一節が思い返されました。
けふのうちに
とほくへいってしまふ
わたくしのいもうとよ
みぞれがふって
おもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
(『永訣の朝』)
賢治26歳、妹トシ24歳での別れを詠んだものです。男児のご両親のコメントには「息子は私たちのもとから遠くへ旅立ちました」とありました。宮沢賢治も「とほくへいってしまふ」と記していますが、ただ遠くへ行くのではないと語る点も賢治の詩と共通しています。「大変悲しいことではありましたが大きい希望を残してくれました。息子が誰かの体の一部となって長く生きてくれるのではないか。息子を誇りに思っています」。これは臓器移植を受ける方のいのちが長らえられるという意味だけでなく、個を超えたもっともっと大きないのちの流れを想起させ、そうした点も賢治の詩と共通しています。
わたしたちの日々は、個々のいのちの縁のなかにあります。「おかげさま」と言われるその縁とは別に、涅槃経に「山川草木悉有仏性」あらゆるものに仏性が宿るとされ、「山鳥のほろほろと鳴く声きけば 父かとぞおもふ母かとぞおもふ」と行基菩薩が言ったように、古来わたしたちの先祖はあらゆるいのちとの一体感のなかで生活を営んできました。眼前に男児の姿はなくとも、男児のご両親にとっては「生き続けること」、それが唯一のすくいであったように、宮沢賢治にとっては妹トシが兜率天に生まれてくれることが唯一のすくいでした。兜率天とは弥勒如来の浄土です。浄土とはすなわち、個を超えたいのちです。
一方で宮沢賢治は、ひとりの人間への個人的な執着を、「修羅意識」として一貫して否定しました。修羅とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天とされる六道のひとつで、闘争的な仏教の守護神、阿修羅がその主とされます。
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(『春と修羅』)
わたし自身は修羅であります。しかし修羅を修羅のままで置かないはたらきがある、親鸞聖人はそのはたらきを本願力廻向、他力回向とおっしゃいましたが、宮沢賢治も個のいのちへの執着を離れ、個を超えたいのちへの帰依を自らの詩的言語で語り続けた方でした。
翻って、わたしたちの周りにあふれているのは、個のいのちへの執着をあおる情報ばかりです。執着は世の常、人の常ですが、修羅を修羅のままで終わらせかねないものです。墓地へ参りますと「◯◯家之墓」と書かれた墓碑が多くなり、浄土真宗独特の「倶会一処」「南無阿弥陀仏」と書かれた墓碑は見かけなくなりました。個を超えたいのちが墓碑から消え、個のいのちばかりに目が向いているように思えます。
道元禅師が「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり」と言い、親鸞聖人が「光触かぶるものはみな 有無を離るとのべたまふ」と指し示された道は、死を悲しみで終わらせない世界、涅槃によって無限のいのちに還る世界、慈悲のはたらきとなって生き続ける世界です。死を悲しみとさせないのは、個の対極にある永遠性と普遍性への帰依があるからです。
「老いを楽しく」「生涯現役」といった言葉で老いは華々しく彩られてはいますが、孤独死が年間2万人、自殺者は年間3万人を超す社会は異常です。働いているときには働きがいを、そして定年後は生きがいを真面目に探してきたわたしたちは、なぜ生きるのか、なぜ死んではいけないのか、その根本への答えを見出せずにいるような気がしてなりません。
脳死判定を受けて臓器提供をされたご両親は、深い悲しみの中で誠に尊い決断をされました。心から敬意を表しますとともに、個を超えたいのちに深々と頭を下げられたであろうそのお姿を思うと、人間中心、自分中心でしか見ることのできないわたしは、言葉にならない思いで胸がいっぱいになるのです。(住職)
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