平川彰先生は東京大学名誉教授をおつとめになった稀代の仏教学者で、2002年にお亡くなりになるまで実に多くの著書を残されました。その中の『新・仏典解題事典』(共著 春秋社 1966年、絶版)序章を読んでおりましたら、次のようなお言葉がありました。
「仏教が民衆化したことは、それだけ安定した宗教になったのであるが、同時に活気を失う結果となった。国民感情に適合した仏教ができ上がってしまえば、そ のあとでさらに独創的な教理を打ち出すことは至難である。したがって仏教界に天才の出現を困難にし、ひいては仏教界に人材の流入を妨げる結果となった。教
理が型にはまってから長い年月がたてば、凡庸な人でも真似でもって他人に法を説くことができるようになる。同時に少しぐらい才能があっても、固定した教学 を打破して、新しい説を打出すことは困難になる。そのために宗以後には、概していえば、仏教界に優秀な人材が少なく、多くの僧尼は生活のために寺に入り、
したがって彼らは高遠な理想を解せず、高い教養や教育をおさめる積極さがなく、このことが、僧界が一般社会から軽視される風潮を作ったことは否めない」 (同書 p.34)
インドから中国へ伝来した仏教が、隨唐時代に飛躍的に発展し民衆へ浸透したのと対照的に、宗代に移ってからは守勢の仏教に変質した点を指摘していらっしゃ るのですが、これはまさに日本に伝来してからの仏教の姿を表してもいます。葬式仏教と揶揄され、伝道者としての本分を見失ったと嘆かれ、軽視されている現 在の僧尼の姿をです。読んでいて、わたしは大きなため息が出てきました。
日本の仏教の姿をみたとき、わたしのように鎌倉仏教の流れを汲むものはとくに、法然聖人と親鸞聖人の二大巨頭が成し遂げられた日本浄土教確立という偉業、 つまり本願念仏の教理の確立以後、さしたる発展を遂げることなく今に至っていると慨嘆せざるをえない日々を送っています。これはわたしが初めて言っている
ことではなく、著名な方々が折に触れ、ご指摘されているそのままの受け売りです。つまり、「親鸞聖人以後、日本浄土教には目立った改革もなく発展もなく、 僧侶は惰眠をむさぼり続けてきた」と。
果たして本当にそうかという細部の検証よりも、「仏教界全体の停滞はどこに原因があったのか」「どこから始まっているのか」という視点でご指摘を受け止め るとすると、ひとつの答えは鎌倉時代に広がった仏教の民衆化にあるということではないでしょうか。鎌倉時代に仏教が飛躍的に民衆化した、それはその時代を
象徴する画期的な出来事でしたが、国民感情にそった仏教ができあがったとする慶事である反面、宗祖を無謬として見て、それ以後のたゆまざる改革をまったく あきらめさせたと言っても過言ではありません。平川先生のお言葉を借りるなら、人材は集まらず、改革することも求められない空気というのは、これは中国の 宋代と現代の日本仏教界が多くの部分で共通しているのかもしれません。
中国の唐代は激しい論争を戦わせた仏教と道教ですが、宋代は仏教が著しく道教化した時代と言われます。その結果、仏教が民主化したともいえますし、民衆化 するためには道教との融合が避けられなかったのかもしれません。道教と仏教の融合、これは我が国の葬儀のときなどに見る「位牌」に今も伝わります。「位
牌」は元来、道教で用いられていたものです。民衆化し、教理の定型化が進み、改革の機運も高まらず、教理をただ覚えれば良いという悪循環のなかで現代の仏 教界は苦しんでいる、これは決してわたしだけの意見ではないと思いますが、それが一般の方をして、法話から足を遠のかせている原因にもつながっているとわ
たしは考えています。法話を聞くことの大切さを浄土真宗は語りますが、その法話がつまらない、これは最も耳の痛いご意見です。話者が覚えた教理をただ話す 法話であったり、親鸞聖人の年表を解説したりするだけの法話であれば、聞く時間がもったいない、そんな声を聞くこともあります。教理を覚えるだけではな
い、そこに躍動する信仰と改革を進めようという気概も求められるのだと、平川先生のお言葉を読んで、叱責を受けた思いです。しかし、人生はかくも短いもの ですから、このお言葉のなかに学び、問い、深め、表わしていくには、ゆっくり急いでいく必要があるとの思いに至りました。
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一言居士 (金曜日, 18 10月 2019 08:02)
如是我聞と書いてある経典が全て釈尊が説いたと、説く宗派の方が見える。親鸞をただあり難いという事に害はないと思う事は害がないのだろうか。多くの僧侶は格差社会の上部から転げ落ちる事を懸念しているのが本音ではないか。平川彰博士に反旗を翻すのは見苦しい事と考えるが如何。