聞思莫遅慮とは

何に手を合わせるの?
何に手を合わせるの?

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ

(親鸞聖人、『教行信証』総序より、本願寺出版社)

 

ブログタイトルの「聞思莫遅慮」は、親鸞聖人の主著『教行信証』正しくは『顕浄土真実教行証文類』の序文である「総序」からの引用です。「聞思して遅慮することなかれ」。阿弥陀様の願いを聞いて、いろいろ自分で考えて迷ってはいけませんという、親鸞聖人の厳しいお言葉で、わたしがことあるごとに思い返して味わうお言葉です。

 

縁あってわたしは父と母の間に生まれ、お育てをいただき、阿弥陀様の願いを聞かせていただく身となり、いまこうしてブログを書いています。ここに至る道はけして平坦なものではなく、山あり谷あり、酸いも甘いもありました。それはひとえに阿弥陀様の願いを聞かせていただくための道だったのだと思い至ったのは、つい最近のことだったように思います。東日本大震災が発生し、いのちがいとも簡単に失われてしまうのだと知らされ、わたしのいのちも明日をも知れぬ身だったのだと気づかされました。原発の事故を見て、「日本人はなぜこんなに無責任になったのだ!」と怒っていますが、自分の命日を知らずに生き、自分のいのちがどこへ帰っていくのか知らない、それこそ自分のいのちに無責任です。他人に無責任と怒る前に、自分にすら責任を果たせていない、それが現実です。わたしたちのいのちがどこから来てどこへ向かっているのか、その問いは大変重要です。その問いこそ、自分のなかの声に耳を澄まし、自分のいのちをたどっていく大切な出発点です。

 

その問いのなかで、わたしは自分のなかにどれだけ聞いても耳を澄ましても声などないと感じ、その問いのなかで阿弥陀様の願いを聞くという縁をいただきました。人生に人それぞれいろいろあるように、阿弥陀様の願いを聞く道にもいろいろあり、わたしの問いが良かったという意味ではありません。その人それぞれに問いを持ち、生きていくなかで、僧侶であった父、お寺を盛り立てていた母、兄と同じ信仰の道を歩んだおかげで親鸞聖人のおすすめくださる安心の道を歩み、ようやく阿弥陀様の願いを聞かせていただけるまでになりました。阿弥陀様の願いを聞くとは、阿弥陀様がわたしにかけてかけてかけ続けてくださっている願いを聞くことで、その願いとはただひとつ「南無阿弥陀仏を称えておくれ」という願いです。願いはひとつですが、その願いひとつにこめられた阿弥陀様にも平坦ではない道があって、ようやくそのひとつの願いにたどりつかれた、願い中の願い、選びぬかれた願いです。その願いを聞き、あれこれ自分で迷い考えてはいけない、戒めの思いで親鸞聖人はお示しになり、わたしもその言葉の意味をよくよく味わいたいとブログタイトルに揚げさせていただきました。