痛みの記憶

(いた)みの研究によりますと、痛みは急性(きゅうせい)疼痛(とうつう)慢性(まんせい)疼痛(とうつう)の二種類に分けられ、急性疼痛は身体のどこかに痛みの原因があり、その原因を除去することで痛みも消えるのに対し、慢性疼痛は原因を除去しようと試みても消えない痛み、充分に解明されていない痛みをそう呼んでいるのだそうです。この慢性疼痛にはたとえば、何軒かの病院を診察ではしごしても原因がわからない痛みも含まれます。この痛みについて研究者は、「過去の痛みの記憶が、何らかのきっかけで現在に呼び戻された状態もあるだろう」と指摘しています。

 

わたしにとって痛みの記憶とは、幼児期のケガなど肉体的な痛みだけでなく、少年期に人と衝突して味わった胸の痛み、青年期の挫折、生活環境の変化、人生観を変えざるをえなかった出来事、そして家族友人や恩師との死別が思い浮かびました。しかし、もっとたくさんあるはずなのに思い出せない。こうして記憶が風化する寂しさは、加齢とともに募ります。亡き人を偲ぶお葬儀、お彼岸やお盆、ご命日の仏事は、その方を亡くした時に味わった痛みの記憶を、風化させたくない思いから続いているのかもしれませんね。

 

お釈迦さまのお言葉に「あなたはいままで自身が感じた生の痛み、死の痛み、老いの痛み、病の痛みを忘れたのか(そこから離れなさい)」(『仏説(ぶっせつ)無量寿経(むりょうじゅきょう)下巻(げかん))』)とありますのは、仏教が痛みからの解放を目指して開かれた教えであることを物語っています。医療の現場では緩和(かんわ)ケア、つまり身体の痛みを除去することが重要になっているそうです。仏教はいま、この場で痛みを除去する即効性はないものの、慢性的な痛みを、包み込んで、あたためてくださる教えだと思います。それがお釈迦さまのおっしゃる痛みからの解放です。

 

楽しいこと愉快なことは、人生のなかの一瞬。いま、ここに生かされているわたしを、その痛みの記憶とともに包んでくださる願いのなかで、手を合わせるお盆でありたいと思います。