ネルケ無方師法話全文

淨泉寺では年に一度、10月にご講師をお招きして法話会を開催しております。今年のご講師は曹洞宗安泰寺の住職、ネルケ無方師です。以下法話の全文を掲載いたしますので、ご高覧ください。


わたしは今年47歳になります。1968年ベルリンに生まれました。そもそも仏教との出会いは16歳、高校生のときでした。キリスト教の全寮制高校に入学し、坐禅を好きな先生がいました。というのは欧米では結構坐禅が流行っています。日本ではヨガが流行っていて、ヨガをされる方も多いけれど、ヒンズー教に興味があってヨガをやっている人がいないでしょう。リフレッシュするために同じような感覚で欧米でも仏教に深く入信しているわけではないものの坐禅をしている人が多い。なかにはクリスチャンもいる。キリスト教には魂の存在を説いていても、体をどう使うのかという定義がありません。今から500年ほど前に神秘主義が流行ったとき、ドイツではエッカートという人がいて、神との一体感を説きました。書物にも残していますが、当時のバチカンからは異端視されています。エッカートがどのようにして神秘体験を得たかということははっきりわかりません。キリスト教徒のなかには今でも神秘主義にあこがれを持つ人がいるものの、方法がわからず、仏教から坐禅だけを借りてきて、自分をみつめる。そうすると仏教とは関係なく、自分を超えた大いなるいのちとの一体感を味わうことができるのではないかと考えるキリスト教徒もなかにいます。ですから、キリスト教徒の高校で坐禅をするということは珍しいことではあるけれども、それほど珍しいことでもありません。たまたまわたしは入学してまもなく坐禅サークルに誘われ、そんなものに僕は興味ありませんと最初断りました。なぜかというと、日本でもオウム事件があった直後は宗教そのものが胡散臭く、ましてや瞑想法やヨガも胡散臭く感じられた時期があったように、30年前のドイツでも空中浮遊ができると主張するグループがたくさんお金を要求したりといった事件があり、坐禅サークルときいたときも何かよくわからない東アジアの瞑想法というぐらいしかイメージが涌かず、最初は断ったのです。しかし生徒が集まらなかったらしく、二、三週間ほどたって再度先生からお誘いがあって、二回も誘ってくるのだからなおのこと怪しいと思い、僕はそんなものやりませんと言いました。すると君はやったことがあるのかと。いままでやったこともないし、これからもないと答えると、おかしいではないかと。やったこともないことをこれからもやることはないというのはおかしいと。その理屈に騙されて、一度やるだけのつもりで参加したのが、ここまで続いてしまいました(笑)。坐禅をして何があったのか。私は16歳で初めて坐禅をして、首から下の自分に気が付きました。以前は「あなたはどこにいるのか」と尋ねられれば「わたしはここにいます」と言って頭を指さしていました。この頭で考えているのが、わたしそのものだと。脳が機能するためには酸素が必要で、酸素を体に取り入れるのは肺、それを脳まで運ぶのは心臓というポンプ、だけど今後医療が進歩して、それらの役目を果たす機械が開発されれば、首から下にその機械が自分の体の代わりについてくれればそれで十分だ、体なんて必要ない、むしろそのほうが楽で良いと思っていました。初めて坐禅をしたとき、それまで呼吸に意識が向いていなかったのですが、そのとき初めて呼吸に意識が向きました。ここで呼吸してるのが私だと気が付いた。静かに坐っていると、鳥の声や雨音が聞こえます。首から下と上がつながっていて、こちらと外の世界がつながっていて、全部わたしの世界だとぼんやり気づいたことから、坐禅の世界へ入って行きました。そして一回でやめるつもりが一年間続いていきました。一年たち担当教師が定年で学校を去ることになり、他に責任者となる教師がおらず、わたしが責任者となって欲しいと言われました。町の図書館に行って片っ端から仏教の本を読み、そこで初めて釈尊のことを知りました。2500年前にインドで王子として生まれた釈尊が、何の不自由もない生活のなかで「生きることが苦しい」と悩み、この苦しみがどこから来るのかを考え、この苦しみから解放されるためにどうしたら良いかを見つめるために宮殿を出て、菩提樹の下に坐りました。その釈尊の姿にわたしは誠に失礼ながら親近感を覚えました。それはなぜかと言うと、私が七歳のとき、まだ37歳だった母がガンで亡くなり、学校から帰ってくるなり部屋に閉じこもるようになりました。閉じこもって考えてばかりいました。「どうせ死ぬなら、どうして生きるのだろう」「人生の意味ってなんだろう」「90年生きたからといって人生が窮屈ではないか。それなら若いときに自殺するほうが良い」と。父に尋ねると「それは学校の先生に聞きなさい」と言われ、学校の先生に尋ねると「君はまだ幼い。中高生になって勉強しなさい」と言われ、大人といえど何もわかっていないのじゃないかと思うようになり、周りの友達に聞いても変な目でみられる日々でした。釈尊のことを本で読むまでは、ひょっとしてそんなことを考えた人類初めて人間ではないかとも思っていました。しかし釈尊はただ、首より下の自分に気が付いたとか、気持ちが良いからという理由で、菩提樹の下で坐禅に打ちこんだわけではありません。私が小学生の頃から考えていた、人生の問題と坐禅がつながっているのです。そのことに私が気づいたとき、それまでただ趣味で坐っていたのが、これに人生を賭けたくなったのです。日本の坐禅で欧米でも著名な鈴木大拙さんの著書を読み、高校を卒業してすぐにでも日本で禅僧になりたいと思うようになりました。定年で退職した先生に相談すると、責任を感じたようで「ちょっと待て」と。「君の熱意も分からないではないが、三年もすると熱が冷め、ドイツに帰りたいと思うようになるかもしれない。いますぐに行くのではなく、大学で日本語を勉強してからでも遅くない」と。このため大学入学を優先しました。ドイツですと高校卒業が6月、大学入学10月で、日本と異なり入学を希望していればどこの国立大学でも入学できるため、入学試験がありませんから、その間4か月の休みがあります。この期間を利用して私はホームステイを思い立ちました。向かったのは栃木県宇都宮市のホストファミリーでしたが、そのご家族がクリスチャンのご家庭で、プロテスタントの本場ドイツから来る留学生ですからいろいろ聞こうと思っていたと思うんですが、わたしは仏教、坐禅、そして日本文化に興味を持っていましたから、妙な組み合わせでした。私は尺八を聞きたいと思ってホストのお父さんにお願いすると、「今から本当の音楽を聞かせてあげよう」というので待っていると、スピーカーから聞こえてきたのはベートーベンの第九交響曲ということもありました。近くの浄土宗のお寺に二泊三日泊めていただいて念仏を体験することもできたのですが、やはり坐禅への思いが尽きず、段ボールに「京都方面」と書いて、それを持って高速道路のインターチェンジ付近に立ちました。運よくトラックに乗せてもらうことができ、京都市に行き、臨済宗のお寺を訪ねたものの、修行僧と一緒に坐禅することのできるお寺はそのとき見つけられませんでした。そしてドイツに帰国し、大学へ入学。ドイツの大学は入学は容易でも、修士論文を出してようやく卒業するというのが一般的で、卒業が困難でした。わたしが22歳のとき、まだ卒業は遠い先でしたが、日本への留学を決心し、京都大学へ参りました。再度の来日でしたが禅寺の敷居は高かった。私のような在家出身者は修行道場では坐禅できませんでした。唯一接心のできるお寺を見つけ、4月から6月そしてその後の夏休み期間中もその曹洞宗のお寺で過ごさせていただきました。このまま坐禅三昧の生活をしたい、大学へは戻りたくないと思い始め、和尚さんに相談して、兵庫県の日本海側にある安泰寺を紹介していただきました。そして初めて安泰寺の門を叩いたのが、平成2年9月の終わりのことです。安泰寺は大正時代にできたお寺で、最初は京都市内に、開基さんはもとは僧侶だったものの還俗し、満州鉄道の株で大儲けをし、そのお金をもとにお寺を建立したと聞いています。当初は金閣寺の北に位置する場所で、当時は周囲に畑が多く、修行道場として開かれていたそうです。その後、戦後は収入の道もなく、住職も修行僧もいない時代が続き、澤木興道と内山興正というふたりの傑僧が出て熱心な托鉢と布教で盛り返し、1960年代の終わりに欧米で坐禅のブームが起きたことで、安泰寺へも50人、60人という人が坐禅をしたいと押し寄せるようになりました。当時は高度成長期の真っ只中で、お寺の周囲に住宅が建ち、門前にバスが通るようになり、周囲の環境は坐禅に打ちこむには不向きになってきました。手狭だったこともあって、思い切って山奥の静かで広い場所へ移り、中国の坐禅のように自給自足しながら坐禅に打ちこもうと修行僧から意見だ出されました。一日なさざれば一日食わざるなりということばがありますが、都会で生活しているとややもすれば、目の前の食事がどこからいただいたものかわからないことがあります。しかし実際にみずからが田畑を耕して得た作物であれば、どこからいただいたものかが実感としてわかります。それを実践してみたいと40年ほど前に修行僧が言い、兵庫県の浜坂町を訪ねたとき、廃村になった村が山奥にあると教えてもらった。京都のお寺を売り、そのお金で周辺の土地を求め、お寺を建てたのが現在の安泰寺です。実際に自給自足の生活を始めると思ったほど楽でないこともわかりました。10年も経つと50人だった修行僧のほとんどが外へ行き、私が来寺した平成2年には5、6人しかいませんでした。わずかな人数で50ヘクタールの田畑を耕すのは大変な仕事です。平成2年日本海側に大きな被害をもたらした台風のため、お寺から最寄りのバス停は4キロありますが、バス停に至るまでの山道がきれいさっぱり流されていて、私はその水害の直後にお寺を初めて訪ねたのですが、雨の中を先輩の修行僧がバス停まで迎えに来てくれました。お寺に着いてお風呂をいただいたのですが、沢の水を引いているため濁った水の風呂、まるでコーヒーの中に入っているような体験です。お風呂の後に当時のご住職に面会をし、こう尋ねられました。「きみは一体何をしにきたんだね」と。「私は坐禅と仏教を教えてもらいに参りました」と言うと、「アホ、ここは学校じゃないんだ。お前が安泰寺を作るんだぞ」と。まだ22歳の留学生に向かって。おそらく修行を試みて訪れた人はみな、そう答えたと思うんです。それに対して最初の一言が「私が安泰寺を作る」でしたから、私も衝撃を受けました。住職が言いたかったのは恐らく、坐り方ひとつで得るものは千差万別で、お前自身が坐禅を作るんだという気概を伝えたかったのだろうと思うのです。それから半年のお寺での生活が始まりました。兵庫県といえど日本海側にあるお寺は多いときは4メートルもの積雪がありますから、冬の4か月ほどはお寺に閉じ込められる生活です。仏典の勉強をしたり、坐禅をしたり。浄土真宗に三部経がありますが、禅宗は不立文字といって、拠りどころとなるお経を持ちません。かといってお経を読まないわけでなくお経を否定もしません。自分の実践、日常生活が重んじられるということです。しかしその風潮が行き過ぎ、曹洞宗ではお経を勉強しないお坊さんが多いという面もあります。鎌倉時代までは天台宗や真言宗は延暦寺などを拠点とした総合大学という側面があったと想像しますが、学僧らによる実践があまりない風潮に対して鎌倉時代、それでは庶民がすくわれないと考えた法然や親鸞、日蓮や道元といった人が出たのではないかと思います。実践を重んじる風潮が行き過ぎて、禅宗ではあまり勉強しなくなった。本日のような法話もあまりしません。葬儀や法要は勤めます。お施餓鬼や大般若もいたします。仏は一体何を説いたのかということについて、残念ながらあまり勉強されない。安泰寺では春から秋にかけては農作業で忙しいものの、冬は毎日勉強会です。それも住職ひとりが教えるのではなく、各々が当番制でおこなう輪講で道元禅師の書物などをテキストに、それが自分の生き方とどう関わっているのかを自分に問いながら、後でディスカッションしています。わたしが安泰寺を初めて訪ねた平成2年からそれは変わりません。年が明けてわたしは大学を卒業するためにベルリンへ戻り、本格的に出家し弟子にしていただこうと平成5年に再び安泰寺へ参りました。弟子になって正式に修行僧となると、料理当番が回ってきます。典座といいます。安泰寺にガスはなく、竈に薪をくべ、玄米を主食にお味噌汁と、畑でとった野菜でおかず二品か三品を作ります。朝晩はご飯ですが、昼食は麺類が多いです。農作業していますので、作業服のままいただきます。わたしも初日からうどんを作れと先輩に言われ、ドイツにうどんはなく、スパゲッティのアルデンテのつもりで作ったら固すぎて食えないと言われ、次の日にやわらかくしようと30分ゆがいたら今度はおかゆになってしまったことがありました。毎日料理のことで怒られているので、僕はなにも料理の勉強をしたくて日本に来たのではないと反発したら、それを横で聞いていた師匠が「おまえなんか、どうでもいい」と怒りました。なかなか師匠の気持ちを当時は理解することができませんでした。啐啄同時(そったくどうじ)という言葉があります。啐啄とは鳥が木をつつくこと、とくに啐は卵の内側から雛がつつくことで、啄は卵の外側から親鳥がつつくことを言います。殻をやぶって雛が外へ出ようとする瞬間、内外からつつくのですが、どちらが先になってもいけない、同時でなければならないという意味です。これを仏教の師弟関係にあてはめるわけです。「おまえなんか、どうでもいい」と師匠から言われたとき、純粋な心の持ち主であれば気づくこともあったでしょうが、私は気づくことができず、師匠の気持ちがそのときのわたしを素通りしていったのです。最初は師匠がおかしいと思いました。安泰寺のご本尊は奈良県にあった何宗かわからないお寺のものを遷したものですが、ご本尊を尋ねたとき師匠は「お前こそ安泰寺の本尊だ」と言ってくれました。そこまで言ってくれる師匠が、なぜ「おまえなんか、どうでもいい」と言うのか。おかしいではないか。今の安泰寺には修行僧が二十名いますが、冬を越すのはせいぜい十名で、それぞれがそれぞれの安泰寺を作ってもらったのでは困る。各々が安泰寺の仏だと言い張ったら困る。自分を手放して、自分を忘れて初めて本当の安泰寺が作れる。そのことがわかるまで私には長い時間が必要でした。平成十三年まで師匠のもとで修業し、わたしは嗣法という儀式を受けるまでになりました。これは住職の教えを嗣ぐというもので、これを終え、本山へ参りますと住職となり、弟子を持つことが許されるというものです。将来ドイツに帰り、坐禅道場を開こうと考えていた私は、住職といわれ、はたと考えました。ベルリンには数多くの坐禅や瞑想の道場があります。それは日本にヨガをできる場所がたくさんあることと似ています。私がいますぐ帰国しなくても、数多くある。逆に日本には七万五千あまりあるというお寺が、本来の役割を果たしていない。お寺の役割、それは葬儀や法事、法要ではなく、生きるための教えを説く場所であるということ。曹洞宗で一万五千あまりお寺がありますが、どこでも坐禅ができるわけではありません。だからドイツに帰国する前に、日本で坐禅道場を作ってみたいと思うようになりました。ひょっとして、こちらのご住職、福井さんがこちらにお寺を作ったときの思いに通じる部分があるのかもしれません。ずっと山奥に籠って坐禅をしてきたけれど、これからは一般の社会の人たちに仏さまの教えを伝えたいと。それができたらドイツに帰国するかもしれないが、先のことはわからない。ところが山を下りるとお金がないから、道場どころか自分の住む場所を借りるお金もない。困って大阪城公園をぶらぶら散歩していたら、あちこちでホームレスがブルーシートのなかで生活している。当時社会問題にもなっていましたが、大阪城公園だけでも八百人ほどいました。そのとき釈尊のことを思い起こしました。釈尊も金キラキンの伽藍の中で坐禅を組んだわけではありません。菩提樹の下です。説法もおそらく野外でなさったでしょう。釈尊の真似はできないけれど、ブルーシートのなかで生活しながら坐禅することは私にもできると思い、見晴らしの良い場所を見つけ、隣の方に声をかけて許しを得、十四年前の九月にテントを張って暮らし始めました。毎朝午前六時から外で二時間坐禅、初めは誰も一緒に坐りませんでしたが、近くのインターネットカフェでホームページを作り、「私は三十三歳のドイツ人で、大阪城公園で毎朝六時から坐禅をしています。一緒に坐りませんか」と呼びかけると、一人二人と増え、冬は四五人にまでなりました。安泰寺での生活に比べ、本当に楽しい生活でした。それまでは師匠のもと、午前三時四十五分に起床し、四時から坐禅、夜遅くまで自分の時間などありませんでした。ホームレスの生活では二十四時間すべて自分の時間です。最低でも三年間はその生活を続けるつもりでしたが、それから半年後の二月十四日に師匠が除雪中に事故に遭ったという連絡がありました。急いで電車で浜坂に向かったものの、病院で亡くなった後でした。師匠は結婚されていたものの子がおられず、弟子は私が五番目の末弟でした。四人の兄弟子は全員事情があって安泰寺にすぐに戻ることができないため、私が春まで急きょ留守番することになりました。私は困りました。こうしてお坊さんらしい格好をしていますが、中身は生臭で、大阪で十年ぶりに恋をして彼女がありました。二月十四日といえばバレンタインですから、夜は彼女とデートする約束だったところを浜坂へ来たわけです。彼女へ電話して事情を伝え、春までの約束で安泰寺に留まることにしました。しかし桜が咲いても兄弟子は来ず、外国人の弟子が多いからお前がやれと言われて、住職に任命されることになりました。当時まだ可愛かった彼女に一緒について来て欲しいとプロポーズして、今はもう力関係が逆転しているようなことです。嫁に逆らえないけれど、何人かできた弟子には師匠ですから、私が師匠から教わったように各々が自分を手放し、安泰寺を作るようにと教えております。自分が仏にならなければ、仏はどこにもいない。だけれども俺が仏だと思ったら、それは仏じゃない。私という思いを手放してこそ、皆が仏の世界に生きることができます。弟子たちによく言います。「キュウリのように育ちなさい」と。安泰寺ではキュウリの苗を植え、その上にひもを一本たらして育てます。仏教の教えになぞらえるなら、苗が弟子、ひもは仏の教えで、自ら掴んでまっすぐに伸びるのが理想の弟子です。しかし、とくに日本人に多いのがトマトのような弟子です。ひもを一本たらしただけではトマトは育ちません。頑丈な支柱を建て、さらにその支柱にひもで縛る必要があります。また芽欠きもします。実がなると美味しいトマトですが、それまでの手間が大変多い。ひょっとすると日本人は幼少からトマトのように縛られて、学校に入っても縛られて、社会人になっても縛られているのではないか。では欧米人はキュウリかと言うとそれも違います。欧米人はむしろカボチャのような人が多いです。カボチャは双葉がでるとキュウリにそっくりで可愛いけれど、間違えてキュウリと同じ畝に植えると大変です。カボチャはそこらじゅうに蔓を伸ばし、隣の野菜まで殺しかねません。カボチャも美味しいけれど畑に植えるときは隣の苗と一メートル以上間をあけて植えないとケンカします。キュウリのように育ってくれない弟子を見て、私はため息をついていますが、師匠が悪いから弟子が悪いんですよね。道元禅師の言葉に師匠は大工ならば、弟子は木材だと。たとえ木材が悪くても、優れた大工は一流の建築に仕上げます。料理も同じ。しかしわたしの今の立場で、弟子にそのことは言いません。釈尊以来の修行法で禅宗では坐禅をいたします。どれだけ坐禅しようと釈尊のようにはなれないと分かっていても、師匠はそのまた師匠から教わったことを弟子に伝え、ずっと釈尊を目指してきたという伝統があります。それでも弟子は自分の師匠に不満を持つことがあります。ある時、わたしの師匠の師匠にお会いして、お話しを伺う機会がありました。その師匠にすれば、私は孫弟子のようなもので、可愛がってくださってお酒もいただきました。師匠は言いました。「バカな弟子のところには、バカな師匠しか来ない」。この言葉はある意味、道元禅師のお言葉と反対のことを言っています。道元禅師は大工がダメなら木材もダメになってしまい、師匠がダメなら弟子もダメになるとおっしゃった。でもその逆だと。お前と言う弟子がダメなら、師匠もダメになってしまうと。要するにダメな師匠であっても、お前の関わり方ひとつで引き出せるはずだと。そこから釈尊の教えを引き出すのはお前自身だと。引き出さないのはお前が悪いからだと。師匠が弟子を作るという流れと、弟子が師匠を作るという二つの流れがあります。私自身の話はこれぐらいにして、仏教とはどのような教えかをご一緒に考えてみたいと思います。仏教には三つの側面があるように思います。第一に「私が仏になる」。釈尊が説いていた教えに、この言葉が最も近いと思います。私という人間がいかに生き、いかに死ぬべきか、この苦しみからいかにして解き放たれるか。釈尊は二千五百年前に気づき、実践し、仏になりました。釈尊は以来四十五年間にわたり、インド各地を巡りその教えを説きました。釈尊は医者にたとえられ、病んだ者を診て処方箋を出すことはできる。しかし処方箋に基づいて薬を出してもらい、飲むのは私であり、釈尊はそれを見ているだけであります。薬を飲むかどうか、そしてリハビリをするかどうかは私次第。釈尊は実物、見本であって、救世主ではありません。そこがキリスト教との違いです。これだけが仏教だという人もいますが、私はそう思いません。凡夫が仏になるために三阿僧祇劫という長い時間が必要。阿僧祇とは時間の単位です。一キロ四方の巨岩があって百年に一度、天女が舞い降り羽衣の袖でその岩を撫でる。それを繰り返すことで長い時間をかけて岩がすり減って無くなるまでが、ひとつの阿僧祇劫という時間でそれが三つもある。第二は無我の教えです。無我を説きながら、釈尊はその一方で涅槃に入られて、お弟子をみんなを置いていった。そのため後に興った大乗仏教、とくに浄土教では法蔵菩薩を軸に、助けを求めるすべての人をすくいたいという願いを立てるという経典が現れた。そこには自分一人では仏にならない、みんなを救いたいというメッセージが強く表れています。それが日本で浄土宗、浄土真宗となって広まっています。法華経では釈尊は本当は死んでいない、芝居だったんだと説いています。死んではおらず、目に見えないが私たちを見守ってくださっている。浄土教では自分と言うものを手放してこそ、阿弥陀如来が救ってくださるとあります。本日午前中に坐禅をいたしました。最初は皆、「自分が頑張って坐禅をするんだ」と意気込みますが、ある時から「わたしが坐禅をする」という意識から「坐禅がわたしをする」という意識へ転ぜられる。大いなる力に抱かれて、坐禅をさせていただいていると気づくときがあります。他力のようなものへの気づきが、坐禅のなかにもある。これは一人称の仏教ではなく、いわば二人称の仏教です。あちらからやってくる他者と、自分とで成り立つ。浄土真宗の念仏を私たち禅宗では唱えませんが、永遠の存在そのものの名前です。三人称の仏教もあると思います。道元禅師の晩年の和歌にこうあります。「おろかなる吾れは仏けにならずとも 衆生を渡す僧の身なれば」(『傘松道詠』)。自らの愚を嘆き、たとえ仏になることができずとも、人々が救われてさえくれればそれで僧の勤めを果たすことができる。自分は最後でいいと。それをわかりやすく詠んだ詩が宮沢賢治の『アメニモマケズ』です。衆生を度す菩薩の姿です。他者の救済をまず優先する。三者いずれも根っこは同じです。(質疑に入り)「どういうことを心掛けて生活されていますか」一息半歩という言葉があります。午前中の坐禅が終わった後、十分間で皆さん一緒に歩きました。一息で半歩、計三メートルほどです。私たちが仏になるのは、気が遠くなる時間がかかります。いまこの世界を少しでも仏国土、浄土に近づけようとすることは気が遠くなる時間がかかります。それを明日までしなくちゃいけない、来年までしなくちゃいけないというのではなく、いまここでできることを少しでもやる。昨日より今日、できることをする。昨日掴んでいたものは今日少しでも手放してみる。全部じゃない。人のために、一歩でも前へ。それを繰り返すとやがて長い道を行くことができる。いまここで全部解決しなくても良い。一分だけでも毎日坐禅する。それができれば二分、三分と。「自然法爾とは」親鸞聖人がおっしゃる言葉で、阿弥陀如来というわたしを超えた大きなはたらき、この大きなはたらきに任せて日々生活するということですね。自分の力で頑張るという考え方とは対極の、自ずから然らしむ、おのずとはたらくものに任せる。道元禅師のお言葉にこうあります。「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」(『正法眼蔵』(生死の巻))。このお言葉は親鸞聖人のお考えに非常に近いと思います。自分を手放してこそ、向こうから力をいただく。この力が自分を通してはたらく。クヨクヨする自分を手放して、阿弥陀如来の力が私を通してはたらく。これはまさに自然法爾のはたらきではないかと思います。道元は自力、法然と親鸞は他力と言われますが、そうではないと私は思います。坐禅においても、日々の生活においても、この私を投げ出し、向こうから帰ってくる力をいただいて、生かされて生きる、生活させていただくと、あれだけ遠かった仏は実は自分の後ろにいた、自分の後ろを押してくれていたということへの気づきになるわけです。