こころのリセット

 お釈迦さまは生まれによる差別を否定され、平等を説かれました。「生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンとなる」(ブッダ『スッタニパータ』岩波文庫)。お釈迦さまのお生まれになったインドは、牛が猿が車の行き交う道路を悠々と渡り、人の遺体が川のほとりで荼毘に付され、あらゆるいのちが混然一体となって本来平等であると考える国です。しかしながら閉鎖的な身分制度がいまも残り、生まれによる差別が根強く残る国でもあります。その国にあって、お釈迦さまは生まれによる差別を否定し、あらゆるいのちの平等、非暴力、非戦を説きました。「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『ダンマパダ』)。殺してはならないという非暴力の教えは平等の教えと密接につながり、互いに補完するものです。「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(同)。怨みを捨てなさいという非戦の教えも平等の教えと密接につながるもので、これら平等、非暴力、非戦はお釈迦さまの教えの根幹を為します。
 
 後に大乗仏教として発展するなかですくいだけでなく慈悲が重んぜられるようになり、慈悲の実践として教育や医療、土木事業や貧民救済の活動が各時代で様々に見られるようになりました。聖徳太子は怪我や病気で苦しむ人のために薬草を育てる施薬院(せやくいん)を四天王寺境内に開いたと伝えられ、行基(ぎょうき)は生活困窮者のために布施屋(ふせや)といわれる無料宿泊所を設置しました。さらに法然聖人の専修念仏、親鸞聖人の悪人正機、自然法爾、還相回向、同朋同行という思想は、わたしたちの無意識の深層に他を思いやるこころの尊さを植え付けました。

 次第にこうした大乗仏教の慈悲の考えは、実に多くの経典と教学とに分かれました。あまたある教学について優劣を競うかのような議論は、「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」と言われ、たしなめられています。すくいに優劣も差もありません。辺地往生と報土往生にふたつの往生があると言われた親鸞聖人のおこころを伺うと、ただ報土往生を薦める強いお気持ちを感じることはあっても、仮に従わなかったら地獄へ落ちるぞという脅しのニュアンスを感じることはありません。蓮如上人は「信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」と厳しくおっしゃっていますが、それも脅して言うのではなく、ただひとえに専修念仏をお薦めくださるお気持ちとわたしはいただきます。布施の多寡によってすくいの差が生まれるかのような説き方は誤まっていると唯円は言う一方で、『歎異抄』のなかですくいの世界を向いて生きる生き方を薦めておられます。あらゆるいのちが平等であるといただいたところから、自他が同一とする世界といただいていくところに、優劣も差もないことは明らかです。
 
 お釈迦さまの教えはこころのリセットです。いろいろあったときに一度こころを無くしてみる。こころを完璧に無くすということはできなくても、無くすイメージの重要性を説く、それを無我という言葉で表します。これに対して西洋哲学ではこころの整理を説きます。我考えるゆえに我ありと言ったデカルトの言葉に、こころを整理して整頓して次の段階へ進もうとする西洋人ならではの考えを感じます。リセットを説く仏教と整理を説く西洋哲学、少々乱暴ですがそんな違いがあるとわたしは考えます。リセットした段階から次になにが浮かぶか。仏教は、人間の考えることなど妄想だ、人間の言うことなど妄言だという立場、ゆえに慈悲の実践の重要性を説きます。わたしに真の意味で真心などない、他者と自分が一緒であると見ることを究極的な理想としつつ、ともに生かされ、ともに生きていることを報恩感謝でお返ししていけるようになることを、この世で大切な行いであると説きます。リセットした次の段階を説いているのです。リセットし慈悲行、リセットし慈悲行、この繰り返しを親鸞聖人は「報恩行」という言葉で示されています。