親鸞聖人の三度の夢告

 『歎異抄』第16章に回心(廻心)という言葉が出てきます。犯罪者が罪を悔い改め、更生を誓う意味として用いられたりもしますが、キリスト教では「かいしん」、仏教では「えしん」と読み、信仰の転回を意味します。「すべての宗教に普遍的な現象で、回心なくして信心の確立はない」(岩波仏教辞典)とも言われ、『歎異抄』では「一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし」と生涯一度きりだと示されます。浄土真宗系の宗教団体のなかには、この回心を「一念覚知」という言葉に言い換え、何月何日何時何分と明確に自分で言えるまで、信徒に信心獲得を認めないところもあり、回心は信仰の上で避けて通れない問題です。

 親鸞聖人の回心は29歳、京都吉水の法然聖人門下にあったときでした。「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(『教行信証』)。雑行とは専修に対する言葉で、念仏以外のものもする修行から、ただ念仏を選ばれたという一文はあまりに有名です。一方、この回心に直接つながったと思われる三回の夢告が、親鸞聖人の『夢記』(真宗高田派専修寺蔵)と資料にあります。夢は神秘的な意味を持つと考えられていた時代でしたから、記録が残されていたのでしょう。それによりますと一度目の夢告は、親鸞聖人19歳の秋でした。止観の学習過程を終え、実践課程へ進む前に、奈良仏教六宗を見学する行脚の旅に出て、法隆寺参詣の後、足を伸ばして河内磯長の聖徳太子廟を参拝し、三日間の参籠をされました。この二日目の夜、「聖徳太子の声」として夢のなかで聴いたのが次の言葉です。「阿弥陀如来と観音・勢至菩薩が迷いに満ちた人間界を教化してくださるが、日本は大乗仏教が弘まるにふさわしい土地である。諦(あきらか)に聴け諦に聴け、わたしが教えるところを。おまえの寿命はあと10余歳しかない。しかし寿命が終われば直ちに弥陀の浄土に生まれるだろう。善く信ぜよ、善く信ぜよ、おまえが真に菩薩になるということを」。「和国の教主」と讃える聖徳太子が、夢のなかとは言え自分に余命宣告をしたのです。親鸞聖人には特別な夢だったでしょう。
 
 それから十年経ち、比叡山で御修行を続ける親鸞聖人が29歳になったとき、自分の命終が近づいていると感じた聖人は聖徳太子に真意を訊ねたいと、太子が語った先ほどの言葉を来る日も来る日も繰り返し唱えていたところ、無我の状態に入ったある夜更け、突然居室内に異光が充ち、如意輪観音が示現して、こう告げました。「善き哉(かな)、善き哉、汝が願、将(まさ)に満足せんとす。善き哉、善き哉、我が願も亦(また)満足す」。二回目の夢告です。当時如意輪観音は聖徳太子の化身と考えられていました。汝の寿命は伸ばそう、そして親鸞聖人が弥陀の浄土へ生まれる先の約束も必ず果たすと、聖徳太子がお告げくださったこの夢告が転機となり、聖人は聖徳太子ゆかりの六角堂へ百日間の参籠を始められます。それはただ、聖徳太子への感謝の気持ちからでした。聖徳太子は四天王寺を建立する際、用材を求めて京都へ足を運び、念持仏として肌身離さず携えていた如意輪観音像を木にもたせかけて池で水浴したとき、水から上がって像を手に取ろうとしたが像が重くて動かない。これは如意輪観音がこの地で衆生を救おうという意志を示しておられると思った太子は池のほとり、現在の六角堂の地で小堂を建立し、念持仏を安置したといいます。親鸞聖人は昼間比叡山の大乗院の一室で眠り、夕闇迫るころ山を下り六角堂へ向かい、夜明けのころに再び上山し眠りにつくという生活を繰り返していた95日目の寅の刻(午前4時)、救世観音が白蓮の花に端座して示現して、こう告げました。「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」(仏道に入って修行する人間<行者>が前世からの報い<宿報>で、たとい女性を抱くことがあっても、わたしが玉のような女性の姿となって抱かれてあげよう。そして一生の間わたしがその仏道者の身をよく包み守り<能荘厳>、臨終には導いて極楽へ生まれさせよう)。救世観音の顔立ちではあるものの白衣のうえに白い袈裟をまとっていて、これは聖徳太子に違いないと聖人は直感しました。太子はこの偈文をとなえ、「これはわたしの誓願であるから、一切の群生(ぐんじょう)に説き聞かせなさい」と聖人に命じ、聖人は「数千万の人々にこのお告げを聞かせなければならない」と思ったところで、夢から醒めたとあります。


 これまでの夢告が余命わずかであることを知らせ(聖人19歳)、余命を伸ばし往生浄土を約束(聖人29歳)というものだったのに対し、この「女犯の偈」はそれらと連続性がないものの、迷っていた聖人の背中を強く押したと想像できます。何を迷っていたか。最近の研究では聖人は六角堂での百日間の参籠中に吉水の法然上人の庵も訪ね、聴聞を重ねていたと考えられています。聖徳太子への感謝が六角堂参籠に至った直接の動機だったものの、参籠を百日間続けるうちに法然聖人の噂を耳にし、聴聞を重ねるうち、専修念仏を主張する法然聖人のご法話に深く感銘し、ご自身の信仰の上で難行道をさしおいて易行道に入り、聖道門を逃れて浄土門へと急速に移りつつあったなかで、「現世のすぐべき様(よう)は念仏の申されん様にすぐべし。(中略)ひじりで申されずば妻をもうけて申すべし。妻をもうけて申されずばひじりにて申すべし」(『和語燈録』)とおっしゃる法然聖人のお言葉に、最後は迷っていたのではないでしょうか。研究者には「法然聖人の言葉に背中を押されて親鸞聖人は妻帯された」と考える方もいらっしゃるのですが、お二人が運命的に出遇われる以前から篤く讃えていた聖徳太子の女犯の夢告が大きな転機になって、雑行を棄てて本願に帰す回心をなさったのではないかと、わたしには思えてなりません。ということからすると、生涯一度きりの回心に至るまでに、果たしてそれが進んで良い道かどうか、迷いながら最後に導き出された答えを回心と言うのでしょう。しかし、回心は決心とは異なります。すなわち、自分で選んでその道を進むよう心を決めるのではなく、その道を進まざるをえないよう背中を押されていく、それが回心なのです。