いまを生きる

 お釈迦さまの教えの原点は、「散心(さんじん)から定心(じょうしん)へ」という点にあったとわたしは思います。あれこれと思い悩み散漫なこころを不善とし、まったく波立っていない湖面のように澄み切ったこころを善とします。しかし唯識がこころのはたらきを51にも分類するのは、澄み切ったこころがいかに困難かを端的に表しているとも言えます。作家で天台宗僧侶の瀬戸内寂聴さんも言っています。「死ぬまで悟りなど得られないでしょうが、それでいいのです」(『生きることば あなたへ』光文社文庫)。定心や悟りとは、こころの完成です。いのちある限りこころの完成を目指しなさいとお釈迦さまは教えられましたが、現世で悟りを開いたお方はお釈迦さま以外にいらっしゃらないことからも、難行中の難行、わたしごときには一生かけても不可能とあきらめています。

 歎異抄第15章に即身成仏や六根清浄といった聖道門の考え方が引かれていますが、これらの教えは今生でこころを完成なさったお釈迦さまと同一の状態を目指すもので、52位ある菩薩道を限られた人生の時間のなかでひとりずつ登っていく世界です。一方で阿弥陀如来のすくいの教えは、今生でのこころの完成と対極にある考え方で、来生での完成を目指すものです。両者に教えの優劣があるわけでなく、お釈迦さまは人それぞれに合うよう教えを説かれました。その生き方はあきらめるのでもなければ、流されるのでもなく、他を非難するのでもなければ、自らを卑下するのでもない、言うならば、受け止めていく生き方でありました。

 お釈迦さまは言い残されました。「過去を追わざれ。未来を願わざれ。過去は、すでに捨てられたのである。また、未来はまだ到達していない。それ故、ただ現在のものを、それがあるところにおいて観察し、揺らぐことなく、動ずることなく、よく見極めて、実践せよ。ただ今日まさに為(な)すべきことを熱心に為せ。誰か明日、死のあることを知ろうや。まことに、かの死神の大軍と遇わずにすむはずがない。このように見極めて、熱心に昼夜おこたることなく努める者、かかる人を一夜賢者といい、寂静者というのである」(中部経典『マッジマニカーヤ』131)。いたずらに過去を悔い、未来を憂いてはいけない。いまを生きなさい、と。
 
 余談になりますが、わたしは今朝車を運転していて、前方の道路に急に舞い降りてきた一羽の雀を轢いてしまいました。これまでいっぱい鶏肉を食べてきたくせに、自らの手でひとつのいのちを殺めてしまったこの事故が、本当に後味が悪いのです。その後、何をするにも思い返されて、気分が塞いだ一日です。雀も家族があったろうに。わたしという生き物は、過去に引きずられていることを痛感いたします。いまという一瞬を生きるということの難しさは、過去に引きずられ、未来を憂いてしまうところから起きているのでしょう。

 お釈迦さまのお弟子のなかに、周利槃特(しゅりはんどく)(梵名チューダ・パンタカ)という名の尊者がいらっしゃいました。仏説阿弥陀経の冒頭にも出ておいでで、十六羅漢の一人と数えられていますが、生来愚鈍であったと言われるお方です。お釈迦さまのお弟子となられて4ヶ月を経ても一偈をも記憶できなかったために、見かねた実兄が祇園精舎から追い出し還俗させようとしたそうです。お釈迦さまはこれを知って彼に一本の箒を与え、東方に向かって、「塵を払わん、垢を除かん」と唱えながら、精舎を繰り返し掃除するよう教えました。来る日も来る日もひとり一心に掃除をする彼の姿はとても尊く、他のお弟子たちも手を合わせるようになり、無言で説法する者として十六羅漢に列せられたと伝えられます。周利槃特尊者はいまでいう知的障がい者ではないかと思うのですが、知的障がいを抱えた方に見られる光り輝く笑顔を、尊者もされていたのでしょう。掃除する姿に過去への後悔も未来への憂いもない、一心に集中して偈をとなえ掃除している姿を思い浮かべると、お釈迦さまが尊者を導かれた方法も素晴らしいのですが、尊者が阿羅漢に列せられたことは強いメッセージ性を持っています。

 仏説阿弥陀経の要所には「ただ念仏しなさい」と説かれていますので、「ただ……する」という尊者の姿と阿弥陀経の要所の説きぶりとはシンクロしており、いまという一瞬を生きる尊さをお釈迦さまはお示しくださっているのです。
 
 来生でのさとりを目指す生き方と別に、今生のいまこの一瞬のすくいをお釈迦さまが説かれるのは、いつやるの?いまでしょ!という言葉が流行る前のことですが、そこには過去に生きるのでも未来に生きるのでもなく、いまを生きることの尊さでもあるのです。