仏教は2階建ての家

アショーカ王碑
アショーカ王碑

『観無量寿経』に「仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く」とあり、阿弥陀如来の名前を称えることで長い時間の罪が消し去ることができると説かれています。お釈迦様が説かれた教えは、厳しい修行を重ねて悟りを目指すという、いわばそれだけの教えでした。その教えがインドを起点に中央アジア、中国を経て日本へ伝わる過程で、仏や菩薩の名前、お経の題名(経題、題目)を讃えることでも悟りを開くことができると説くようになりました。それは瞑想や戒律を説く出家者が、布施や祈願、礼拝を通じて在家者に信仰のすそ野を広げ、教義を中心とした教えが実践を中心とした教えへと広がり、仏教がインド固有の民族宗教から多民族宗教へと姿を変えていくうえで必要なことでした。言い換えれば、こうした変遷がなければ仏教は、ごく一部のインド人にしかわからない、瞑想中心で非常に専門的な教えのままでした。

 お釈迦様は紀元前383年に亡くなったといわれていますが、それから100年ほど後にインド亜大陸のほぼ全域を統一したアショーカ王は、武力によって征服した過去を悔いて仏教に帰依したと伝えられます。王は仏法による統治宣言の碑文をインド各地に建てました。碑文にはギリシア語とアラム語の二語併記で、信仰の勧め、殺生を慎むべきこと、父母長上に従うべきこと、そしてそれらの実践が将来の繁栄をもたらすことが説かれています。ギリシア語はアレキサンダー大王東征以来この地に残ったギリシア人に向けたもので、当時ギリシア、イラン、そしてインドの多民族が暮らす国でした。ギリシア人にとって偶像を持たない仏教は馴染みが薄かったようで、まず舎利塔の信仰により、次に現在のアフガニスタンへ伝わったとき騎馬民族クシャーン朝の庇護のもとで仏像が生まれました。シルクロード交易で栄えたガンダーラで財をなした商人や王侯が競うように舎利塔を建て、仏菩薩の像を彫って寺院に寄進し、経典が編まれました。

 仏教を「2階建ての家」に譬えるなら、専門的な教義と厳しい修行は1階、仏菩薩による現世と来世の庇護を求めて布施と祈願を勧めたのが2階、1階はインドで、二階はガンダーラで2世紀に増築されたものです。念仏を称えることで罪が消し去るという考え方はこの2階で民衆の求めから生まれたもので、後世に大きな影響を与えた反面、ために誤解も生じました。歎異抄第14章に指摘されているのは、経典に書かれた滅罪を拡大解釈することから生じたそうした誤解です。

 子どもの頃、生家の2階にわたしの自室がありましたので、友達が遊びに来るとすぐに2階に連れて遊んだ記憶があります。親がいる1階で遊ぶより、子どもは自分たちのスペースで遊びたい時があります。1階からお茶とおやつを持って、親が様子を見に来たことがありました。2階で何をやっているのか気になってのことです。わたしも親にならせていただいて初めて、そのときの親心に気付いたのですが、「親の心、子知らず」です。

 念仏は十悪五逆も八十億劫の罪も超えると経典にあるものの、それは仏教の2階。その心の本質は2階ではなく、1階にいる親心を伺って初めて見えてくるものです。歎異抄に見える親鸞聖人のお言葉に、「念仏申さずして終わるとも」必ず往生を遂げさせるという大きな親心が隠されていました。念仏を勧めているものの、念仏しなかったからといってすくわないと言っているのでもなく、ああありがたいと思ったその一瞬に、わたしたちはすくいの手の中にすでに入っている。

 2階に行くとき、必ず1階を通ります。2階の念仏にたどりついたとき、すでに1階の親心の手の中に入っているのです。親鸞聖人はそれを「正定聚」という言葉で表され、すくわれたいとか、ああありがたいと心に感じたその一瞬に、それは阿弥陀如来の親心の真っただ中にいることと同義であるといただかれました。それは念仏を称えることがすくいの条件にならない、それこそ仏教の真髄、お釈迦様が一生かけて説かれた教えです。