お釈迦さまの道、それは「開かれたこころ」

 お釈迦さまが示された道、それはこころを開く教えです。私たちは自分の姿を反省するときに、こころが閉ざされていたり偏見に満ちていたりすることが往々にしてありますが、何かの縁でそのことに気付き、ハッと目を覚まされることがあります。気付き、目覚め、それを仏典では「開発」という言葉で表わします。開いて発する。古くはインドで使われ漢訳仏典に出てくる言葉です。人間が内に持っている尊いものを、慈悲のこころが伸ばすことと理解できるでしょう。本願寺第八代蓮如上人は『御文章』のなかで「信心開発」「宿善開発」という形で使われました。お念仏が「手段」の私の人生が、お念仏「そのもの」の人生に転じられることです。この言葉を弘法大師もお使いになり、日蓮上人においては『開目抄』というお書物の中で、目を開く、こころを開く、開かれたこころを大切する、それがお釈迦さまの道と説いています。
 しかしいくら素晴らしい教えであっても、書物を読んだり、人から教えを受けても、それが大して自分に響かないことがあります。その逆にそれが何かの縁に、とくに逆境での経験を積んだ後に、「あ、まさにこれだったな」と思って気付かされることがあります。それは抽象的な知識で開かれたのではなく、自分の経験に照らしてハッと気づかされたわけですから、実践的な認識と言えます。私たちの先人はそれを「お育て」と言ったり、「育てられている」という言い方をして、そのようにして気付かされることを大切にしていました。目覚めや気付きが自らの仕事でなく、慈悲のこころが開いてくださることを、慈父と悲母が子どもを育むにたとえた表現です。
 私事ですが年末に所要があって山梨県の河口湖畔へ行きました折、運転して通りかかった小学校で標語を目にしました。「いいちえ いいあせ いいこころ」。良い知恵と汗のもとに心が結ばれるという教えは、修行のイメージと重なり、仏教的だと感じました。修行はお釈迦さまの時代、身体を痛めつけ苦しめるものでなく、自らの修養を指しました。お釈迦さまの古い教えを伝える聖典のなかに、農夫とお釈迦さまの対話が出て参ります。
 私にとっては、信仰が種子である。
 修行が雨である。
 智慧がわが軛と鋤とである。
 慚が鋤棒である。 
 努力がわが軛をかけた牛であり、
 安穏の境地に運んでくれる。
 この耕作はこのようになされ、
 甘露の果実をもたらす。
 この耕作を行ったならば、
 あらゆる苦悩から解き放たれる。
  (『スッタニパータ』)
 「お釈迦さまは何もしていないじゃないですか。私は朝から晩まで田を耕して苦労している。あなたは一日何をしているのですか?」「いや、私は鋤鍬を持って耕すことはしないけれども、自分の心を耕しているんだ。これはもう真剣な努力だ。それによって世の人々に感化を及ぼすことになる」という趣旨をおっしゃっています。一行目にある信仰とは特定の宗教を信じるという狭いものでなく、宇宙の真理を受け入れることです。真理は自ら求めてつかむのでなく、また熱狂的に信じるものでもなく、静かに穏やかに、ただそっと受け入れるものです。私たちは真理に対してこころを開く、それが修行になります。さらに慚愧という言葉で知られる慚、つまり自分に対する恥じらいが伴わなければならないと仏教の教義学では教えます。孔子さまのお言葉に「われ日に三度省みる」(『論語』)とありますように、善行とは「人の為になっているから善いことである」というお仕着せでなく、立場が変われば善行も悪行になりうるという自主点検が必要です。
 そして真理と修行のもとに訪れる、苦悩から解き放たれた状態を解脱や悟りと言いますが、面白いことにインドの単語では複数形で使われています。解脱を得る、悟りを開くことは人生に一度しかないとするのではなく、複数回ある。つまり人生のうちで瞬間瞬間に何度となく訪れるものであるという考え方がインドでされていたのです。「一里行けば一里の悟り、二里行けば二里の悟り」と聞いたことがあります。一度悟りを開いたらもう後はその境地から退くことはない、何してもいいんだということでなく、むしろ一日一日本当の道を実践する、瞬間瞬間にこれでいいのかしらと反省しながら、道を求めていく、そこに本当の宗教の生命があるのでしょう。