はからいを捨てて

仏教の成立、それは釈尊が菩提樹の下で悟りを開き、その悟りを人々に伝えたことに始まります。紀元前383年に釈尊没後、釈尊が伝えた教えは弟子たちの手で集められましたが、当時文字はあったものの記憶にたよっていたため、記憶第一の阿難(アーナンダ)が中心となって弟子たちの教えを確認し合いました。それが次第に整理され、形式が整えられ、たて糸を意味する「スートラ」(経)と呼ばれるようになりました。「たて糸」と呼ばれた背景には、教えを簡単な形に圧縮し、記憶しやすいものにする意図があったといわれています。


 「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である」。(中村元『ブッダ真理のことば』岩波文庫)


 釈尊は上記のように倫理的聖句を数多く残しています。現実の迷いと苦悩を断ち切るために倫理的行為を薦め、殺さないで愛し合うことを、盗まないで施すことを、妄語を語ることなく真実を語ることを教えようとしました。これらは「アーガマ」(阿含)とも呼ばれています。

 釈尊の言葉を記憶し、実践していくうえでその解釈は次第に多岐に分かれるようになり、解釈をめぐって僧の集団である僧伽(さんが)分裂経て、アビダルマ仏教の時代が到来します。アビダルマとは<法の研究>を意味し、釈尊の教説を同種類ごとに分類整理したり、体系的に配列したり整理することで、語義の解釈、注釈、さらに法の理解に基づく自己の学説の樹立へと発展していく、いわば仏教にとって「基礎科学の時代」にあたります。このうち「説一切有部(せついっさいうぶ)」では現象の変化、世界の成立、善悪の行為の成立と結果、業・心の変化と煩悩、煩悩の断尽、悟りの段階、悟りの内容などについて、細かな理論体系を作り上げています。

 大乗仏教は、大乗経典を仏説として受け入れるという特色を共有する仏教といえます。大乗経典は紀元1世紀から7世紀にかけて成立し、仏滅後400年以上経て成立したこれらの経典を、伝統部派(小乗仏教とも言われます)は異端と見ました。それは仏説ではない、というのです。これに対し大乗仏教の側からは、伝統部派が用いるアーガマも「弟子の記憶」に依るもので、長い歴史のなかで修正、編纂が進んだ経緯からも仏説とは言えないではないかという反論が出されました。

 一方で、大乗経典は紀元1世紀から7世紀にかけて大量に生み出されたものの、大乗仏教にまつわる出土品の碑文・銘文等の考古学資料が皆無に近いことから、最新の研究では「大乗経典は存在するが、大乗教団は500年ほどの間、存在しなかった」という見方が広がっています。つまり、大乗仏教初期から中期にかけての大乗経典を書いたのは伝統部派に属する経師たちで、伝統部派に属しながら新たに経典を生み出す「経典制作運動」だったのではないかと考えられているのです。

 専門家のなかには、大乗経典が生み出された背景に、在家信者への浸透を模索する動きが伝統部派内にあったのではないかとする見方もあります。仏教が大衆に広く受け入れられていくために、そしてアビダルマ仏教の精緻な基礎科学の反動から、大乗経典が生み出され、仏教は批判をしながら影響を受け、階層的に作り上げられてきました。

 法然聖人のお示しくださった浄土の教えは大乗経典中期の「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」に基づき、念仏を称えて真如(さとり)を目指す教えです。さとりの世界を真如や波羅蜜と言いますが、言語と認識を超えた世界です。


無明(むみょう)(ぎょう)(しき)名色(みょうしき)六処(ろくしょ)(そく)(じゅ)(あい)(しゅ)(う)(しょう)老死(ろうし) (十二因縁)


釈尊は人間苦の原因を十二に分類しています。わたしたちが老いて死ぬのは生まれたからで、行頭から二番目、行とは修行という意味ではなく、わたしたちの周りにある「作り上げること」として用いられます。義(はからい)と同義です。つまり、「作り上げること」は「無知」から生じているという説明です。無知では真如へは至ることができない、作り上げるのではなく阿弥陀如来から廻向された念仏によってさとりに至ると法然聖人がお示しになった背景には、体験を通じた信仰だけでなく、長い仏教伝統の論理からも伺えるのです。