青木新門講演会講演録「いのちのバトンタッチ~映画『おくりびと』に寄せて」

10月6日青木新門さんをお招きして、第1回「いのちの講演会」を開きました。以下は講演要旨です。

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  富山県の黒部平野で生まれ、両親に連れられ満州(現在の中国東北地方)へ渡り、ほどなく終戦を迎えたとき私は8歳でした。父は戦死、母が難民収容所で発疹チフスで隔離されてすぐ、0歳の弟と4歳の妹が死にました。小さな遺体を満州の荒野に捨てた体験は、私のなかに深く刻みこまれています。昭和21年暮れに母とふたりで引き揚げてきて、富山の祖父母の元へ身を寄せたものの、夫を亡くしていた母はすぐ家を出、私は祖父母に育てられました。早稲田大学へ入学、安保の渦のなかでほとんど勉強しないまま中退し、富山へ戻って飲食店を営みながら詩や小説を書き、文学を志すようになりました。ほどなく店は倒産し、子どものミルクも買えない状態のなか、新聞の求人欄に見つけた葬儀社の仕事を、短期のつもりで始めました。
 納棺の仕事を始めてしばらくした頃、疎遠だった叔父がやってきて「死体を扱う仕事をしているのか」と問いただし、「すぐ辞めろ。都会ならともかく、この狭い富山でやられては親族は恥ずかしくて街を歩けない」と怒鳴りました。「どうしても辞めないなら、縁を切る」と。親族の恥とまで叔父に言われて初めて、私は世間体が気になりだしました。周囲から白い目で見られている感覚から、誰とも会わなくなり、隠れるようにひっそり生きていました。
 その後ずいぶん経って叔父は末期癌となり、「意識不明でここ両日が峠。あなたはずいぶんお世話になったのだから顔を出して」と母が泣き声で電話してきました。顔も見たくなかったのですが、意識不明ならば行ってやろうかと思いました。父の代わりとなって私を育ててくれた恩など、微塵も感じていませんでした。「親族の恥」と罵られたことだけが、深い恨みとなっていたのです。
 身構えて病室へ入ると、人工呼吸器をつけた叔父は意識が戻っていました。傍らにいた叔母が私の来訪を叔父の耳元で伝えると、震える手を私に伸ばします。その手を握りながら、私は叔母が用意してくれた椅子に腰かけました。叔父は何か言おうとしますが、ほとんど声になりません。その顔は私を罵倒した時と全く違う穏やかな顔で、いつの間にか目尻から涙がこぼれ落ちていました。叔父の手が少し強く握ったように感じられたとき、「ありがとう」と私にもはっきり聞こえました。その瞬間私の目からも涙があふれ、椅子から転げ落ちるようにして、「叔父さん、すみません」と土下座していました。叔父は何度も「ありがとう」と言いました。その顔は清らかで安らかでした。私の心のなかの憎しみはすっかり消え、涙がとめどなく流れ落ちました。私が病室を出てまもなく、叔父は息を引き取ったそうです。
 九州地方の門徒総代さんの一周忌にいただいた冊子のことをお話しします。その門徒総代さんが亡くなるとき、子や孫まで17人もの親族親戚が取り囲むように看取ったそうで、今日が峠か明日が峠かと孫たちは3日間学校を休んで全員で見守り、後で全員が感想文を書いて一冊にまとめたのだそうです。なかでも14歳のお孫さんの文が素晴らしい。「ぼくはおじいちゃんからいろいろな事を教えてもらいました。特に大切なことを教えてもらったのは亡くなる前の3日間でした。今までテレビなどで人が死ぬと、周りの人が泣いているのを見て、何でそこまで悲しいのだろうかと思っていました。しかし、いざ自分の身内が亡くなろうとしている所に、そばにいて、ぼくはとてもさびしく、悲しく、つらくて涙が止まりませんでした。その時、おじいちゃんはぼくにほんとうの人の命の重さ、尊さを教えて下さったような気がしました。(中略)最後に、どうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでもぼくを見守ってくれることを約束して下さっているような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました」。臨終の場面に居ること、つまり死を五感で認識することが大切なのです。死後数日経ってから斎場で棺の蓋を開けて遺体と対面しても、恐らくその遺体は何も語らないでしょう。遺体を見るだけでは、この文のように「笑顔」という言葉は出てきません。親鸞聖人がたびたび引用されたお言葉があります。「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ」(道綽禅師『安楽集』)。浄土真宗は報恩感謝の思想で貫かれております。言いかえるとそれは「ありがとう」になるのだと思います。(談)