『あんぱんまん』に見る阿弥陀如来のすくい

2歳の娘が見るものですから、テレビで『それいけ!アンパンマン』を一緒に見ることがあります。何気なく日常テレビを見ていただけのアンパンマンでした が、ふと最近手に取ったのは、原作者やなせたかしさんのこれはおそらく最初期の絵本『あんぱんまん』(フレーベル館、1976年第一刷)。

 

この絵本『あんぱんまん』(現在はアンパンマンとカタカナですが、この絵本では平仮名です)を読み、現在のアンパンマンと姿が少し異なり手は五本指、アン パンマン生みの親であるジャムおじさんにはまだ名前がなかったりするのですが、何より驚いたのはその「教え」の深さです。

冒頭、広い砂漠の真ん中で、ひとりの旅人がお腹をすかせてまさに行き倒れんとするところから絵本は始まります。すると西の空から何やら飛んできま す。それはどうやら人のようです。その人は旅人の前に降り立つなり「さあ、僕の顔を食べなさい」と言うのです。旅人はそんな恐ろしいことはできませんと断 ると、「ぼくはあんぱんまんだ。いつもお腹のすいた人を助けるのだ。僕の顔はとびきりおいしい。さあ早く!」と言って譲りません。

 

こ の、あんぱんまんが沈みかけた夕陽を背に西の空から飛んでくるという設定は、わたしたちに否応なしに西方浄土を連想させます。また夕陽を背に立つ姿は、後 背を背にした阿弥陀如来像に似ていると思われてなりません。この場面では夕陽が沈む夕方の時間で描かれていますが、それは善行をする人にはいつか必ず後光 が差す、そんな隠喩を含んでいるようにも感じるのです。ちょっとこじつけかな。

旅人は「ごめんなさい。ではちょっとだけ」と断って、恐る恐るあんぱんまんの頭にかじりつきました。現在のあんぱんまんは自ら頭の一部をちぎって、お腹の すいた人に分け与えていますが、この場面では自ら頭を差し出しています。これは本当に「どれだけ食べても構わないのですよ」という意思の表れでしょう。ま た食べる旅人も、正座しています。これは襟をただし、きちんと正座して向き合わなければならない物や行為が世のなかにはあるということを教え、わが国の素 晴らしい伝統作法を伝えようとしているようにも思えます。テレビアニメでこの描き方をすると、怖いというイメージを持たせてしまうことになるため、現在の テレビ放送ではあんぱんまんが自ら頭の一部をちぎって、立ったまま相手にあんぱんを分け与え、それを頂くほうも立ったまま受け取り、「ありがとう」と口で 感謝を伝えるという描かれ方です。しかし、自らの一部を与えるというとてつもなく大きな好意を受けるには、正座してお礼を言うんだよと古来の作法は教えて くれているのです。

あんぱんまんはこの旅人に顔の半分ほどを差し上げ、続いて出会った迷子の少年に残る半分を差し上げた後、パン工場に戻り、パン作りのおじさん(現在 のジャム おじさん)に新しい顔を作ってもらいます。新しい顔で元気になったあんぱんまんは「またお腹のすいた人を助けに行ってきます」と飛んでいってこの絵本は終 わるのですが、結びに「あんぱんまんは今日もどこかの空を飛んでいます」とあります。新しい顔を焼いてもらえば寿命はいつまでも続くということは、阿弥陀 如来の無量寿(いのちに始まりも終わりもない)という意味に通じ、永遠のなかの一瞬を表しています。どこの空でも自由自在に飛んでいるし、呼べばすぐに来るということは、阿弥陀如来の無量光 (光の届かないところはない)という意味に通じています。無量寿と無量光、ふたつの何と広大なメッセージを含んでいるのでしょう。絵本とあなどるなかれ、 誠に素晴らしい労作です。テレビアニメで見ただけでは、これほど深いメッセージを含んでいるとは知らずに今日まで参りましたが、この原作本を読んで、感動のあまりブログに書きたいと一気にこの文章を書いています。

 

ところで、原作者のやなせたかしさんは「これまでで一番の最高傑作は、バイキンマンです」とおっしゃっていますが、この言葉を最近知ってますますあんぱんまんが好きになりました。あんぱんまんを阿弥陀如来の救いたとえるとするなら、バイキンマンはわたしたちの誰にでもひそむ悪い心の部分。誰しもあんぱんまんのような強く優しい存在に憧れることがありますが、「だけど なれないよね」とか「そんなこと言うけど、人間ってダメだよね」と理想通りなれない自分もいます。心の弱い部分に共鳴できる、それこそが仏教なんですよ。 仏教が道徳と違う点なんですよ。理想通りに生きていくことができなくても、それを一緒に悲しんでくださる阿弥陀如来のような存在があるかどうかなんですよ。あんぱんまんはバイキンマンといつも必ずセットなんですから。