釈迦族滅亡とお釈迦様を武者小路実篤の戯曲から

釈迦族滅亡を描いた武者小路実篤の戯曲『わしも知らない』を読みました。(『わしも知らない 他十篇』岩波文庫、初版1953年。絶版のため、古本で買いました)

 

お釈迦様が王子としてご誕生され、やがて出家された歴史ある王国・釈迦族は、コーサラ国王の琉璃王(瑠璃王)に皆殺しにされて滅亡したとされています。釈迦族を滅亡させる計画があることを知っても、武器を取るべからずとおっしゃったお釈迦様は、平和と非暴力の象徴として描かれていますので、折に触れてご存じの方も多いと思われます。しかし、武者小路実篤さんがこのテーマで戯曲を書いておられたとは存じませんでした。大正時代に初演された一幕ものを集めたもので、短い時間でお読みいただけます。

 

釈迦族を大虐殺するという恐ろしい計画があることを知った、お釈迦様と目連尊者の会話から舞台が始まります。


目蓮「あなたはどうなさる御つもりです。」
釈迦「わしは黙って見ている心算(こころづもり)だ。
   それより他にわしには許されていない」


虐殺の計画をなんとか止めさせたい目蓮尊者、それに対して「ただ見ているだけしかない」とお答になるお釈迦様との行き詰る対話。何たるむごさかと思わずにおられない虐殺の描き方もさることながら、ドラマチックなラストに至るまでの過程で徐々に明らかになるお釈迦様の諦観のなかに、お釈迦様が開かれた悟りの深さは、ヒューマニズム全盛の現代人には容易に想像することができないほどのものだとつくづく思い知らされるのです。

人のいのちは地球より重いと申します。

その通りです。しかしその重さは何によって支えられているのでしょうか。いのちはいのちによって支えられていると考えるなら、いのちが終わってゆく寂寞と苦悩は終わりがありません。しかし、いのちは大いなる法則によって支えられていると考えるなら、寂しさと同体の真実に目覚める喜びが顕かになってくる、お釈迦様の視点はまさにそこにあったのかと、読後にわたしはひとり考えていました。永遠のものなどこの世の中に何もないという、しかし大いなる法則という永遠がたったひとつだけあるという釈迦一代の教えはまさにその一点に尽きます。虐殺事件の小悲のなかに、大いなる悲しみ、大悲を感じ取っておられたお釈迦様だけが語ることのできた「ただ見ているしかできない」というお言葉に表れていたのでしょう。