ふたつの葬儀と通夜について

本日、葬儀に参列しました。
その葬儀は市営斎場つまり火葬場で行われ、私は僧侶として炉前で読経をさせていただきました。
一般的な通夜と葬儀を経て、斎場に柩をお移しし、荼毘にふすというのではなく、その葬儀は最近増えているといわれる「直葬(ちょくそう)」とよばれるもので、斎場の読経室を一時的にお借りして、参列者が柩のなかにお花を手向け、10分程度の時間、葬送の読経を僧侶が誦している間にお焼香をいただく、とても簡素な葬儀でした。
その葬儀の後、故人様のご遺骨を皆さまと一緒に収骨し、斎場近くの墓苑に納骨に参りました。
斎場からご遺骨をもって帰宅し、四十九日や一周忌まではご自宅でお参りするというのがこれまでの一般的な流れですが、収骨直後に納骨するという、それは言うなれば最短のケースでした。
それはわたしもこれまで聞いたことのない、初めてのケースでもあります。
ご遺骨を持って帰宅できないご事情があるのだと、参列者のおひとりが教えてくださいました。
家族の形態が変わって、いろんなことを選択できる時代になったとはいえ、一抹の寂しさを感じてその墓苑を後にして向かった先で、別の通夜に参列しました。

その通夜はマンションの6階にあるごく普通のご自宅で営まれました。
自宅で長く看護を受けた方が、自宅で静かに息をひきとられ、自宅で通夜と葬儀が営まれる。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で描かれた昭和には、まだこのような看取りと葬儀が確かにありました。
先の葬儀が表現が悪いかもしれませんが、「段取り」のように事務的なものになっていた感は否めないのに対し、その通夜は残されたご家族3人だけで送ろうと初めから決めておられたため、故人様には懐かしいご自宅で通夜、葬儀を出したいとの強い願いのもとで営まれ、手厚い看護をなさった達成感と穏やかな看取りとで、ご遺族には涙がまったく無く、笑顔と笑いとたくさんの会話に囲まれた、アットホームな通夜でした。
ここまで書き、不謹慎を恐れずに言いますと、だんだん私も明日の葬儀に参列するのが楽しみになってきました。

対照的なふたつの葬儀と通夜に出遇い、介護や看護が難しくなったことや独身や離婚が増えたことも背景にあり、そもそも単に比べることはできないのですが、葬送の文化が日本社会から急速に消えようとしていることは確かです。
そして、それは日本人の心を映しているように思われてならないのです。